Orquesta(81) Canta(104) member(37) Orquesta2(31) Electronica(21) Compositor(13) Cafe De Los Maestros(15)
(オスバルド・モンテス)
1983/member/作曲、バンドネオン
ブエノスアイレスで {エミリオ・オルランド} Emilio Orlando、{ミゲル・ニヘンソン} Miguel Nijenshon、<ミゲル・カロー>、<エンリケ・フランチーニ>で演奏する。
1962年<レオポルド・フェデリコ>率いる、人気絶頂期の歌手<フリオ・ソーサ>の伴奏楽団に参加する。
その他<アティリオ・スタンポーネ>、<オラシオ・サルガン>、<マリアーノ・モーレス>楽団に参加、特に<マリアーノ・モーレス>とは10年近く共演、さまざまな海外公演にも同行した。
1983年から<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>のメンバー。
1980年代末には、<アントニオ・アグリ>の日本ツアーに参加、フランスではギター奏者{シロ・ペレス} Ciro Perezと演奏した。
ピアノの<カルロス・ガルシーア>とのドゥオ、ギターの<アニバル・アリアス>とのドゥオで録音を行っている。


(パブロ・アグリ)
1990/member/ヴァイオリン
1990年代後半には、タンゴのキャリアをスタートさせ、<オスバルド・ベリンジェリ>、<オラシオ・サルガン>、<フリアン・プラサ>らと共演。
<レオポルド・フェデリコ>楽団へも参加するようになる。
<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>に参加。
のちに、{コロン劇場専属オーケストラ}(Orquesta Estable del Teatro Colon)と{アベジャネーダ交響楽団}(Orquesta Sinfonica de Avellaneda)のメンバーとなる。


(ソニア・ポセッティ)
2003/member/演奏家、現役
ピアノを<オラシオ・サルガン>に学ぶ。
<エルネスト・バッファ>の六重奏団や、{カルロス・ブオーノ}(Carlos Buono)、<ロドルフォ・メデーロス>の五重奏団のメンバーでもあった。
2003年には自身の作曲した作品を演奏する為、著名なミュージシャン達と五重奏団を結成した。
それはヴァイオリンに<ダミアン・ボロティン>、バンドネオンに{フェデリコ・ペレイラ}(Federico Pereira)、パーカッション兼ビブラフォンに{ファビアン・ケオログラニアン}(Fabian Keoroglanian)、コントラバスに{アドリアナ・ゴンサレス}(Adriana Gonzalez)というメンバー構成であった。
1996年からは【アベジャネダ・ポピュラー音楽学校】の教師も勤めており、レパートリーと実習の授業を受け持っている。


(フリオ・パネ)
1989/member/作曲、楽団、バンドネオン、教師
<フリオ・パネ>が在籍した楽団は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、オスバルド・マンシ(Osvaldo Manzi)、<アルマンド・ポンティエル>、<アティリオ・スタンポーネ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ミゲル・カロー>、<ホセ・バッソ>、<レオポルド・フェデリコ>、<オスバルド・タランティーノ>、<アストル・ピアソラ>六重奏団 (Sexteto de Astor Piazzolla)
<ラウル・ガレーロ>と<カルロス・ガルシーア>を指揮者にむかえ、1982年に設立された<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>には、83年にソリスタとして参加し、現在もこのオルケスタでも活動している。
1992年、ドラムの{ダニエル・ピアソラ}(Daniel Piazzolla)と、<アストル・ピアソラ>のコンフント・エレクトロニコ(Conjunto Electrónico) を再結成したグループに参加。
このグループはアルバム1枚と数シーズンの公演の後解散した。
2002年、ブエノスアイレスのコロン劇場(Teatro Colón)に自身のトリオで出演。
{イルド・パトリアルカ}(Ildo Patriarca)、<フアンホ・ドミンゲス>と共演。


(ロベルト・パンセーラ)
1949/member/バンドネオン
彼は独学でバンドネオンの演奏を学び始め、1940年代の前半になり、{ドミンゴ・S・フェデリコ}(Domingo S. Federico)に師事するようになる。
1945年にフェデリコの勧めで<フアン・カルロス・コビアン>の楽団に<ロベルト・パンセーラ>は所属する。
それからしばらくしてヴァイオリン奏者<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン奏者{アルマンド・ポンティエル}(Armando Pontier)の楽団に加入する。
彼のバンドネオンの才能と技巧が認められ、さらに編曲家としての独創性から、明らかに時代を先取りジャズと現代音楽の調和という実験音楽を求めていた<オスバルド・フレセド>に招かれた。
<オスバルド・フレセド>の楽団に編曲家として<ロベルト・パンセーラ>の加入後、楽団は戦中戦後に聴かれていたアメリカのビッグ・バンド的な雰囲気を帯び始めた。
1955年に<アストル・ピアソラ>はより野心的でタンゴ史における最上のものを求め{ブエノスアイレス八重奏団}(Octeto Buenos Aires)を結成するために<ロベルト・パンセーラ>を招聘した。
その1年後、<オスバルド・フレセド>の楽団に戻り、かつて経営したナイトクラブで演奏するようになった。
彼のスタイルは本質的に<アニバル・トロイロ>的であり、歌手たちから伴奏をもっとも求められる人物の一人となった。
彼は{ウゴ・マルセル}(Hugo Marcel)、<ロベルト・ゴジェネチェ>、{ウーゴ・デル・カリル}(Hugo del Carril)など数多くの歌手たちの伴奏を務めた。
彼はアルゼンチン音楽著作権協会(SADAIC)の会長を1982年から務め、同年ユネスコの国際音楽会議のアルゼンチン代表となった。

(アリエル・ペデルネーラ)
1961/member/コントラバス
自身の楽団を持ったほか、{ホセ・ルイス・パドゥーラ}や<ロベルト・フィルポ>、<ミゲル・カロー>、<フランシスコ・カナロ>の楽団で活躍した。


(オスバルド・アベーナ)
1964/member/バンドネオニスト
1960年代から、詩人<エクトル・ネグロ>との共作も含め、オリジナル曲を作るようになる。
また、2年間伴奏としてともに歩んだ<スサーナ・リナルディ>などタンゴに新しい風を吹きこみ、ミュージシャンとしての地位を確立していった。
1967年ODOLソング・フェスティバルで、<エクトル・ネグロ>と共作したこの街(Esta ciudad)が優勝し、その後もネグロとは多くの作品を生み出した。
1937年歌手<エクトル・マウレ>の伴奏者としてプロデビュー。
タンゴでは<アルド・カルデロン>、<スサーナ・リナルディ>、グラシエラ・スサーナ(Graciela Susana)に伴奏を提供する。


(カルロス・コラレス)
2003/member/バンドネオン
<カルロス・コラレス>は9歳で習い始めたバンドネオンで驚異的な上達をみせ、ソリストとしてラジオ、テレビ、舞台などで演奏を始める。
11歳で、ピアニストで作曲家の<ホセ・バッソ>のオーケストラとの競演でデビューを飾る。
1986年にはソリスタとして、ピアニストで作曲家の<ホセ・コランジェロ>とのコラボで日本40カ所を巡るツアーを行う。
彼が第一バンドネオンとして活躍した楽団には、<オラシオ・サルガン>、<オスバルド・ピロ>、{オスバルド・レケマ}(Osvaldo Requena)、{オマール・バレンテ}(Omar Valente)、<ネストル・マルコーニ>などのオーケストラや、{オルケスタ・デ・タンゴ・ブエノスアイレス}(Orquesta de Tango de Buenos Aires)が挙げられる。
2003年には{オルケスタ・タンゴ・ビア・ブエノスアイレス}を一任された。
2004年にはタンゴバンドのネオタンゴ(Neotango)とCDを発表。
彼は新構成でスタートした<キンテート・レアル>のメンバーでもあり、<フアン・デ・ディオス・フィリベルト>国立アルゼンチン音楽オーケストラ(Orquesta Nacional de Musica Argentina Juan de Dios Filiberto)の第一バンドネオン奏者としても活躍している。


(アントニオ・アグリ)
1965/member/作曲、ヴァイオリン
<アストル・ピアソラ>の耳に届き、1962年ピアソラのキンテート(五重奏団)への呼び声がかかった。
ピアソラとは数年間にわたり共演し、海外ツアーにも参加。
それと並行して、<アニバル・トロイロ>、<オスバルド・フレセド>、<オラシオ・サルガン>、<マリアーノ・モーレス>など、タンゴの巨匠たちのショーに参加し、レコーディングもおこなっている。
<キンテート・レアル>やコロン劇場専属オーケストラ(Orquesta del Teatro Colón)にも所属していたが、1976年、自身のオーケストラ、弦楽コンフントを結成する。
タンゴを中心に、グルック(Gluck)、ブラームス(Brahms)、シュトラウス(Strauss)、さらにはビートルズの作品までレパートリーに取り入れた。
1983年、<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>での演奏をスタートとさせ、晩年までたびたびこのオーケストラに参加している。


(サウル・コセンティーノ)
1983/member/演奏家
1990年にはブエノスアイレス市<カルロス・ガルデル>・コンクールにて<ロベルト・ディアス>の歌詞によるタンゴ曲ロ・ケ・メ・グスタ(Lo que me gusta)で優勝を獲得した。


(パブロ・マイネッティ)
1990/member/バンドネオン、現役
彼が共演したミュージシャンは、<アティリオ・スタンポーネ>、{ラウル・ガレーロ}(Raul Garello)、<フリオ・パネ>、<レオポルド・フェデリコ>、<フリアン・プラサ>、<セステート・マジョール>、<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>、<アストル・ピアソラ>の楽団を再現した{エレクトロニコ八重奏団}(Octeto Electronico)など。
彼の五重奏団はアルバム【トレス・リンコネス】(Tres rincones)で2004年ラテン・グラミー賞最優秀タンゴ・アルバム部門にノミネートされている。


(マルセロ・ニシンマン)
1935/member/バンドネオン
<マルセロ・ニシンマン>は、幼い頃から<アストル・ピアソラ>に親しみ、ピアソラの創作活動における厳格さと自由を敬愛した。
バンドネオン奏者<マルコス・マドリガル>と<フリオ・パネ>に師事し、ある夏プンタ・デル・エステ市でピアソラと出会ってから彼を師と仰ぎ、模範とした。


(マルコス・マドリガル)
1936/member/バンドネオン、現役
音楽院と街の楽団で音楽を学び、独学で卓越したバンドネオンの技術を身に付けた。
1936年に<オスバルド・プグリエーセ>の最初の楽団に参加する。
<オラシオ・サルガン>、<エルビーノ・バルダーロ>、<フリオ・デ・カロ>など著名な楽団でバンドネオン奏者を務めた。
また長きに亘るバンドネオン教師としての活動。
現代のタンゴシーンで活躍する一流の演奏家を何人も育てた。
長く切望されていた彼の著によるバンドネオン教則本が2003年に出版された。
<ホセ・リベルテーラ>、<エルネスト・バッファ>、<マルセロ・ニシンマン>、{ビクトル・ウゴ・ビジェーナ}(Victor Hugo Villena)など様々な世代の偉大な演奏家達が名を連ねる。
その後しばらくして、<フアン・サンチェス・ゴリオ>、<エンリケ・ロドリゲス>、そして<オラシオ・サルガン>のオルケスタ・ティピカと演奏した。
1953年、<エルビーノ・バルダーロ>の楽団で再び演奏し、第一バンドネオン奏者の<フリオ・アウマーダ>を支えた。
フリオは後に自身の楽団に彼を招いている。
1970年代の終わりには、<オスバルド・フレセド>とレコーディングをし、1990年代の初めには<カルロス・ガルシーア>率いる楽団で{フェデリコ・スコルティカッティ}(Federico Scorticatti)のサポートとして日本ツアーに同行した。


(カチョ・カスターニャ)
1958/member/ピアニスト
{ラジオ・エクセルシオル}(Radio Excelsior)のオーケストラのピアニストとしてプロデビュー。
1958年、歌手として青年楽団{ブエノスアイレス・オルケスタ・ティピカ}(Orquesta Tipica Buenos Aires)が最初の公演。


(フランシスコ・デ・カロ)
1924/member/作曲、ピアノ
<フリオ・デ・カロ>、<フランシスコ・デ・カロ>
1917年、<フランシスコ・デ・カロ>はバンドネオン奏者<カルロス・マルクッチ>率いる四重奏団でデビューを果たした。
息子たちにクラシックの勉強だけをさせたかった父と仲たがいし、モンテビデオへ移る。
1924年、帰国し兄<フリオ・デ・カロ>の楽団にピアノ奏者として参加、以後ずっと一緒に活動することになる。
<カルロス・ガルデル>と共演した映画ブエノスアイレスの灯 1931年以降さまざまな映画にも出演した。
完璧にピアノという楽器をマスターしており、タンゴにおけるメロディーとハーモニーの進化に決定的な要素となる一連の流れを生み出すことが出来た。
1960年代半ば、労働省で働くことにして、芸能活動からをあきらめてしまった。


(ロドルフォ・メデーロス)
1970/member/作曲、バンドネオン、映像クリエーター、現役
<ロドルフォ・メデーロス>の才能に惚れこんだ。
<アストル・ピアソラ>の説得を受け、学業を離れブエノスアイレスに移住、アルゼンチンの首都で音楽活動を始める。
1969年には<オスバルド・プグリエーセ>楽団に参加した。
<ロドルフォ・メデーロス>は、2000年に永遠のブエノスアイレス(Eterno Buenos Aires)でラテン・グラミー賞。
2001年にタンゴス/メデーロス&ブリスエラ(Tangos/Mederos-Brizuela)でラテン・グラミーベスト・タンゴ・アルバム部門にノミネートされた。
ガルデル賞(Premio Gardel)は、2000年にタンゴ・ベスト・アーティスト部門で受賞。
2001年にはサトゥルノの小道によりベスト・タンゴ・アルバム部門で受賞 した。
<フアン・デ・ディオス・フィリベルト>国立アルゼンチン音楽オーケストラ(Orquesta de musica Nacional Juan de Dios Filiberto、1986年に指揮者となる。


(フアンホ・ドミンゲス)
1940/member/ギター
14歳で最初の録音を経験。
弟と共に<ロドルフォ・レシーカ>、<アルベルト・エチャグエ>、<アルベルト・ポデスタ>、<アルベルト・モラン>など伝説的な歌手を伴奏した。
長く幅広い共演歴の中では{ウゴ・マルセル}、<ネストル・ファビアン>、<ルベン・フアレス>、<ビルヒニア・ルーケ>、<カルロス・アクーニャ>、<マリア・グラーニャ>と共演、<ロベルト・ゴジェネチェ>とのアンソロジカルな録音で共演した。


(オスバルド・タランティーノ)
1940/member/作曲、ピアニスト、監督
1940年代、<ペドロ・マフィア>や<エドガルド・ドナート>、<アルヘンティーノ・ガルバン>のオーケストラと共に共演。
<エクトル・バレラ>のグループに加わり、<アルフレド・ゴビ>のオーケストラに加わる。
1960年代、<アストル・ピアソラ>の五重奏団、1972年には{グループコンフント9}( Conjunto 9)を結成。
ラウル・ガレロ(Raul Garello)と演奏し、<オラシオ・フェレール>と共演。
1980年代、<ネストル・マルコーニ>やアンヘル・リドルフィ(Angel Ridolfi)、また<ルベン・フアレス>や伝説の<ロベルト・ゴジェネチェ>と舞台【カフェ・オメロ】(Cafe Homero) にて共演。
歌手として有名な<アルベルト・マリノ>や<エドムンド・リベロ>伴奏を務める。


(ネストル・マルコーニ)
2005/member/バンドネオン、現役
11歳でピアノと作曲の勉強を始め、その後バンドネオンに没頭。
ブエノスアイレスでは、<ホセ・バッソ>楽団のメンバーとしてスタートし、<エンリケ・フランチーニ>=<アルマンド・ポンティエル>楽団のメンバーともなった。
エクトル・コンソーレ、オラシオ・(オマール・)バレンテと共にバングアトリオを結成、タンゴの革新派バンドとなる。
オリジナル曲や、古典の名曲のアレンジでもその個性的な音使いを極めた。
<オラシオ・サルガン>の<キンテート・レアル>のメンバーとして演奏し、<アストル・ピアソラ>・キンテートの再現でピアソラ役としてピアソラのシンフォニックな作品を弾きこなし、<アドリアナ・バレーラ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ホセ・コランジェロ>の編曲者として活躍したのは、その万能的なアレンジがあったからこそ。
2005年まで、<アティリオ・スタンポーネ>とともに国立<フアン・デ・ディオス・フィリベルト>・アルゼンチン音楽オーケストラの指揮者をつとめた。
現在は、自身のトリオで息子のレオナルド、コントラバスのオスカル・ジウンタと演奏している。
2007年からはオルケスタ・エスクエラ・デ・タンゴの指揮者もつとめている。


(オスバルド・ホセ・モンテス)
1980/member/バンドネオン
ギター奏者の<アニバル・アリアス>との共演でも知られる
以前は{ホセ・サラ}などのもとで修業したのち、<ミゲル・カロー>、<レオポルド・フェデリコ>、<アティリオ・スタンポーネ>で活躍していた。

(ダミアン・ボロティン)
2005/member/ヴァイオリン、現役
<レオポルド・フェデリコ>、<フリアン・プラサ>、<オラシオ・サルガン>、<アティリオ・スタンポーネ>、<ロドルフォ・メデーロス>、<ネストル・マルコーニ>などに参加

(フリオ・アウマーダ)
1980/member/作曲、バンドネオン
<ペドロ・マフィア>のスタイルは、センシティブな表現が特徴。
20歳でブエノスアイレスに移り、{ロベルト・セリージョ}(Roberto Zerrillo)のオルケスタに参加。
その後、<ミゲル・カロー>の楽団へ移っている。
さまざまな楽団で演奏し、<アルヘンティーノ・ガルバン>、<ルシオ・デマーレ>、<アルベルト・カスティージョ>、{エクトル・マリア・アルトーラ}(Hector Artola)、<ホセ・バッソ>、{ホアキン・ド・レジェス}(Joaquin Do Reyes)、<エンリケ・フランチーニ>などのオルケスタがあげられる。
1980年から
<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>でも演奏している。

(アグスティン・バルディ)
1921/member/作曲、ヴァイオリン、ピアノ
<アグスティン・バルディ>は、<エドゥアルド・アローラス>、<エンリケ・デルフィーノ>、<フアン・カルロス・コビアン>と共に、タンゴ史におけるもっとも美しい作品を残したクリエーターの一人。
<ビセンテ・グレコ>に招かれ、その後モンテス・デ・オカ通りとイリアルテ通りの交差点にあったカフェ【TVO】で<エドゥアルド・アローラス>と演奏した。
優れた演奏家となっても商社の仕事は辞めなかった。
現在のアルゼンチン音楽著作家協会 SADIACの前身にあたる音楽家の作品の権利を守る組織の創立メンバー。
1921年以降は、音楽活動は作曲のみとなり、現在も作曲家として知られている。

(ウーゴ・バラリス)
1944/member/ヴァイオリン
また彼の名を聞くと、<アニバル・トロイロ>や<アストル・ピアソラ>を思い出すかもしれない。
しばらくして、<ラファエル・ロッシ>との共演、若きバンドネオン奏者<アニバル・トロイロ>と出会うことになる。
そして<アンヘル・ダゴスティーノ>との演奏と続く。
<アニバル・トロイロ>が1937年に自身のオルケスタを結成した時、<ウーゴ・バラリス>を誘い、その後彼は当時無名だった<アストル・ピアソラ>が<アニバル・トロイロ>のオルケスタに入る仲介者となった。
<アニバル・トロイロ>と別れてからは、<フアン・カルロス・コビアン>のオルケスタで演奏した。
その後、生涯の盟友<アストル・ピアソラ>が指揮する、歌手<フランシスコ・フィオレンティーノ>の伴奏楽団に加わる事になる。
1980年に<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>設立時に第一ヴァイオリン奏者として加わり、引退するまで務め上げた。

(レイナルド・ニチェーレ)
1944/member/ヴァイオリン
<アニバル・トロイロ>楽団で長く第一ヴァイオリンをつとめたのちソリストとして<マリアーノ・モーレス>や<エドゥアルド・ロビラ>いろいろな演奏家とともに活躍した。
また、{ロス・ソリスタス・デル・タンゴ}(Los Solistas Del Tango)を結成した。
