Orquesta(81) Canta(104) member(37) Orquesta2(31) Electronica(21) Compositor(13) Cafe De Los Maestros(15)
(カルロス・ガルデル)
1917/Canta/作曲、男性歌手、俳優、ソロ
デビューは1910年代末で1913年<ホセ・ラサーノ>とのドゥオを結成。
1917年「わが悲しみの夜」でタンゴ・カンシオンという分野を生み出した歌手。
1930年代、映画産業の初期スターとして、フランスやアメリカで撮影を行い、こうした世界的規模の活動の真っただなかで、飛行機事故にあい、この世を去った。
作曲家としても多くの作品を今日に残している。


(アンヘル・バルガス)
1940/Canta/男性歌手、ソロ
1938年<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>楽団と録音した際の歌手としての登録に、音楽会社ビクトル(Victor)へ赴き、その翌年には同社から初のソロのレコードを発表する。
1940年に、<アンヘル・ダゴスティーノ>が<アンヘル・バルガス>を歌手に迎え、レコードは爆発的にヒットした。
<イグナシオ・コルシーニ>を思わせる歌唱スタイルを秘めた
1951年から1954年までは{アルマンド・ラカバ}(Armando Lacava)楽団が彼のバックで演奏しており、1954年から1955年までは<ルイス・スタソ>と1959年には<ホセ・リベルテーラ>との録音を残している。


(アルベルト・カスティージョ)
1943/Canta/男性歌手、ソロ、作詞
1940年に<リカルド・タントゥーリ>率いるオルケスタ、ロス・インディオス(Los Indios)の歌手となり、その人気はオルケスタを凌駕するものとなる。
1943年には本格的にソリストとして活動するために<リカルド・タントゥーリ>から離れる。
最晩年まで活動を続け、90代の時には国内のポップ・ロックバンド
{ロス・アウテンティコス・デカデンテス}(Los Autenticos Decadentes)に招かれたりした。


(フリオ・ソーサ)
1949/Canta/作詞、男性歌手
1949年に<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>のオーディションを受け、こちらは即決で歌手契約をとる。
1953年に<フランシスコ・ロトゥンド>の楽団に移り、この時期の1955年6月から1960年8月まで、その頃すでに<エンリケ・フランチーニ>と袂を分かっていた<アルマンド・ポンティエル>指揮する楽団に参加、このふたりは素晴らしいパートナーシップを発揮した。
その後ソーサ自身の大きな飛躍となるソリストとしての独立につながる。
1961年5月、<レオポルド・フェデリコ>の楽団の伴奏で、レコーディングを始める。
<レオポルド・フェデリコ>の精巧な伴奏とともに、<フリオ・ソーサ>は人気絶頂の1964年に事故に遭い息を引き取った。
彼は歌手で他に文筆家としての才能もみせ、新聞にコラムを書いていた。


(ロベルト・ルフィーノ)
1938/Canta/作曲、男性歌手、ソロ
1938年、<カルロス・ディ・サルリ>との活動をスタート。
40年代のタンゴ黄金時代の象徴になる。
60年代の<アニバル・トロイロ>の音にも深く関係している。
90年代までソロとして活動した。
{エミリオ・オルランド}( Emilio Orlando)や<フランチーニ-ポンティエル>、<ミゲル・カロー>や{ロベルト・カロ}(Roberto Calo)、<エンリケ・フランチーニ>と演奏。
1961年、{アルマンド・ポルティエル}(Armando Portier)と、1962年から1965年の間は、<アニバル・トロイロ>と歌を共にする


(ロベルト・マイダ)
1926/Canta/男性歌手
1925年に彼はでプロ歌手としてデビューした
<ミゲル・カロー>楽団。
<フランシスコ・カナロ>楽団で1935年頃から専属歌手をつとめたほか、<カトゥロ・カスティージョ>や<ペドロ・マフィア>などの楽団で活躍。


(ロベルト・ゴジェネチェ)
1952/Canta/男性歌手、ソロ
1950年代の<オラシオ・サルガン>、<アニバル・トロイロ>といった楽団の専属歌手。
年齢からくる声の衰えを、あふれる表現力、感情、感傷を描ききることでカヴァーした。
トロイロ楽団には1963年まで在団し、その頃には歌唱力を磨きあげ、彼は個性的で表現豊かなスタイルを強調するようになっていた。
その後、<アルマンド・ポンティエル>、<アストル・ピアソラ>、<アティリオ・スタンポーネ>、<ラウル・ガレーロ>などの伴奏で歌っている。
1960~70年代にソロ歌手となり、人々の敬意を受ける身となった。
1983年にパリでスタートした 【タンゴ・アルヘンティーノ】の最初のメンバーに選ばれ、
ピノ・ソラナス監督の映画によって国際的な注目を得た。
1988年には日本公演


(エクトル・マウレ)
1940/Canta/男性歌手、ソロ
1937年には<アンセルモ・アイエタ>楽団で活躍。
<フアン・ダリエンソ>のリフレイン・ボーカルとして大成功をおさめ、1945年にソロ歌手として活動を始めたころから、<カルロス・ガルデル>類されている歌手で、タンゴ界のスターとして認知されるようになった。
ソロ歌手としての長いキャリアを通して、<エクトル・バレラ>、<リト・エスカルソ>、<ホルヘ・ドラゴーネ>、<レオポルド・フェデリコ>などの楽団や、ギター奏者の<ロベルト・グレラ>とも共演した。
(リディア・ボルダ)
2000/Canta/女性歌手、ソロ、現役
現在タンゴ界で人気のある女性歌手の一人。
オルケスタ・<エル・アランケ>し、<チャルロ>、<オスバルド・フレセド>、<カルロス・ディ・サルリ>ら古典タンゴの作者のナンバーを演奏。


(カルロス・ダンテ)
1936/Canta/男性歌手、映画、サラリーマン、ソロ
1934年<ミゲル・カロー>楽団の歌手となる。
1936年、<ミゲル・カロー>楽団から独立し、<アグスティン・マガルディ>とのコンビを解散したばかりの{ペドロ・ノダ}Pedro Nodaとドゥオを組み、ダンテ=ノダのコンビはすぐに評判となる。
<アルフレド・デ・アンジェリス>楽団=<カルロス・ダンテ>、<フリオ・マルテル>歌のレコードは売れる。
1951年<フリオ・マルテル>に代わって、{オスカル・ラロカ} Oscar Larrocaが入団、<カルロス・ダンテ>の新しいパートナーとなった。
1958年、<アルフレド・デ・アンジェリス>楽団と140曲近くを残した<カルロス・ダンテ>は退団した。
<カルロス・ダンテ>は<フランシスコ・カナロ>によってヨーロッパへの音楽大使団の一員に加わるチャンスを与えられることになる。
こうした仕事が継続してあるにも関わらず、石油輸入公団で17年間も働き続けた。


(アルベルト・マリノ)
1943/Canta/作曲、作詞、男性歌手、ソロ
1939年アルベルト・デマーリ(Alberto Demari)の芸名で、ヴァイオリン奏者<エミリオ・バルカルセ>の楽団の歌手としてデビューした。
1943年の<アニバル・トロイロ>楽団の専属歌手になる。
<アニバル・トロイロ>とは1943年にキャバレー・ティビダボ(Tibidabo)でデビューした。
<アニバル・トロイロ>と共に得た名声はその後のソロ歌手としての飛躍の基礎となっている。
1947年ソロ歌手として活動を始めるため<エミリオ・バルカルセ>と再会する。
その後、初めは{エンリケ・アレッシオ}(Enrique Alesio)、その後{トト・ロドリゲス}(Toto Rodriguez)が伴奏楽団を引き受け、<ウーゴ・バラリス>、{オスバルド・マンシ}(Osvaldo Manzi)、{トト・ダマリオ}(Toto D'Amario)、{オスバロ・タランティーノ}(Osvaldo Tarantino)などの伴奏で1960年代末まで公演を続けた。
その後<エクトル・バレラ>楽団と日本をツアーし、<カルロス・ガルシーア>の伴奏でコロン劇場でも公演した。


(エクトル・パチェコ)
1956/Canta/男性歌手
<フアン・ダリエンソ>や<ペドロ・マフィア>らの楽団を経て<オスバルド・フレセド>の楽団で専属歌手として大成功した。
ソフトムードな歌い方が特長。
1956年にソロとして独立。


(エルネスト・ファマー)
1928/Canta/作曲、男性歌手
劇場で始まった<オスバルド・フレセド>と、まもなく、<カルロス・ディ・サルリ>と
<フランシスコ・カナロ>年間続いた。
<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>や<フランシスコ・カナロ>や<フアン・カナロ>などでも活躍。


(フロレアル・ルイス)
1944/Canta/男性歌手
<フロレアル・ルイス>はスタイル豊かで人気のあるタンゴ歌手のとしてその長い経歴を積み、1940年代に<アルフレド・デ・アンジェリス>や<アニバル・トロイロ>と絶頂を迎える。
1942年<アルフレド・デ・アンジェリス>に加入して、名声獲得へのステップとなる。
1944年、既に人気を集めていた彼は、<アニバル・トロイロ>のオーケストラに移ることを決意。
常にボーカリストとして著名な<アルベルト・マリノ>や<エドムンド・リベロ>とデュオを組んだ。


(アルヘンティーノ・レデスマ)
1957/Canta/男性歌手
1957年にはオデオン・レーベルの提唱で、ソロ歌手となる。
1958年には初めてチリへ行き大成功をおさめている。
1959年喜劇タンゴの庭(Patio de tango)に参加し、クルト・ランド監督の映画【エル・アサデ】ビューした1952年から常に成功し続けたアーティストだった。
<カルロス・ディ・サルリ>の楽団に歌手として移るが、ラジオ局【LR1ラジオ・エル・ムンド】の番組【グロストラ・タンゴ・クラブ】(Glostora Tango Club)で引き続き<エクトル・バレラ>楽団と歌うために戻っている。
<オスバルド・フレセド>のレコーディングに参加した。
ソロ歌手になってからは1966年まで{ドラゴーネ}(Dragone)の伴奏でレコーディングしている。
その間、ギター伴奏で{デマルコ}(Demarco)や<カルロス・ガルシーア>との共作も残した。


(アルベルト・エチャグエ)
1938/Canta/歌手
<フアン・ダリエンソ>楽団の象徴的な歌手であり、タンゴがもっとも人気あった時期に、大成功した楽団=歌手のコンビの1つ。
1938年<フアン・ダリエンソ>楽団に入団。
非常に個性的なスタイルを確立し、ドラマチックなタンゴをユーモラスなものに変えてしまった。
1940年、すべてのメンバーと共に<フアン・ダリエンソ>楽団を脱退したが、4年後に戻り、1957年までダリエンソと行動をともにした。
1957年にはもう一人の専属歌手だった<アルマンド・ラボルデ>と{エチャグエ=ラボルデ} Echague-Laborde 楽団を旗揚げした。
1960年<フアン・サンチェス・ゴリオ>楽団に入団、1961年からはソロ歌手として歌い続けた。


(チャルロ)
1928/Canta/男性歌手、ソロ
初期のレコードにおいては<カルロス・ガルデル>の強い影響がみられたが、やがて抑えの利いた、気取った独自のスタイルを確立した。
1924年にラジオで歌い始め、翌年には最初のレコードを録音した。
1928年<フランシスコ・カナロ>楽団、同時にソロイストとしてのレコーディングも行った。
<フランシスコ・ロムート>楽団の歌手としても録音している。
1935年からは映画にも出演、歌手としてマリオ・ソフィシ監督1935年作品バンドネオンの魂、


(ラウル・ベロン)
1940/Canta/男性歌手、ソロ
1940年代に登場した表現力豊かで個性的な歌手の一人。
<ラウル・ベロン>は、<ミゲル・カロー>楽団とキャバレー【シンガプール】とラジオ【ベルグラーノ】で活躍。
1940年代には、<オルランド・ゴニ>、<ルシオ・デマーレ>、<フランチーニ-ポンティエル>楽団に参加した。
1950年代には、<アニバル・トロイロ>楽団に参加した。
1963年<ミゲル・カロー>楽団とのもので、以後はソロ歌手として活動、1968年にギター伴奏によるアルバムを1枚残した。

(エドムンド・リベロ)
1940/Canta/作曲、男性歌手、ソロ
1940年代、<オラシオ・サルガン>で共演。
<アニバル・トロイロ>のオーケストラと一緒になると、すぐにトップスターになる。
<カルロス・ガルデル>の後、もっとも偉大なタンゴ歌手として、名を馳せる。
低音を操る技術で、<カルロス・ガルデル>の伝統を受け継ぐ者であった
1950年に<ビクトル・ブチーノ>や自身のギターカルテットと共にソロ活動を始めることになる。
1969年にはピアニストの{カルロス・ガルシーア}と共にブエノスアイレスでもっとも有名なタンゴバーの一つ【エル・ビエホ・アルマセン】(El Viejo Almacen)を開業。
そこで彼は死の直前まで歌い続けた。
<フリオ・デ・カロ>と{ホセ・デ・カロ}(Jose De Caro)のオーケストラの歌手であり、{ロス・カントーレス・デル・ヴァジェ}(Los Cantores del Valle)のメンバーでもあった。
レコード製作のために<オラシオ・サルガン>と再会し、<アストル・ピアソラ>と{ホルヘ・ルイス・ボルヘス}による歌詞で<アストル・ピアソラ>の作品を録音した。


(フランシスコ・フィオレンティーノ)
1937/Canta/作曲、男性歌手、バンドネオン、ソロ
<フランシスコ・カナロ>楽団にバンドネオン奏者として参加、<フランシスコ・フィオレンティーノ>は最終的に歌手としてのみ知られるようになるまで、バンドネオンと歌の間で揺れ動く時期を長く過ごした。
1928年からさまざまな有名楽団で活動したにもかかわらず、広く知られた彼の最良の時期は<アニバル・トロイロ>と一緒だった1937年から1944年まで。
トロイロとのコンビはリフレイン歌手の最高の芸。
<フアン・カルロス・コビアン>(1928年)、<フランシスコ・カナロ>(1929年)、<ロベルト・フィルポ>(1929年)、<フアン・ダリエンソ>(1929年)、<アンヘル・ダゴスティーノ>(1930年)、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>(1931年)、<ペドロ・マフィア>(1931年)、<リカルド・マレルバ>(1936年)、<フランシスコ・フィオレンティーノ>は<オルランド・ゴニ>楽団の歌手<アストル・ピアソラ>指揮のソロ歌手となった。
<イスマエル・スピタルニク>になった(1946年)。
<ホセ・バッソ>楽団(1948-1949年)、その後{アルベルト・マンシオーネ} Alberto Macione 楽団(1950-1951年)、最後は{プグリア=ペドローサ} Puglia-Pedroza楽団(1951-1952年)に参加した。


(ロベルト・チャネル)
1943/Canta/男性歌手、ギター
当初<ロベルト・チャネル>は<オスバルド・プグリエーセ>の第一歌手ではなく、前には{マリオ・ドレエ}(Mario Doree)、{ロベルト・ベルトラン}(Roberto Beltran)、<アルベルト・アモール>、{アマデオ・マンダリーノ}(Amadeo Mandarino)、{アウグスト・ガウティエル}(Augusto Gauthier)などが居た。
1943年頃には第一歌手となり、聴衆はすぐにこのオルケスタと歌手のコンビを受け入れた。
また、<リカルド・タントゥーリ>、<エンリケ・カンポス>と<オスバルド・プグリエーセ>、<ロベルト・チャネル>はレパートリー曲を共有していた。
プグリエーセの人気曲を<リカルド・タントゥーリ>の楽団が弾き、<リカルド・タントゥーリ>の人気曲を<オスバルド・プグリエーセ>の楽団が弾いていた。


(テオフィロ・イバニェス)
1928/Canta/男性歌手、作詞
<ロドルフォ・ビアジ>、<フリオ・デ・カロ>や<オスバルド・フレセド>、{オルケスタ・ティピカ・ブルンスウィック}などで活躍。


(ネリー・オマール)
1938/Canta/作曲、女性歌手
1938年、{バレンティン・アルシーナ}Valentin Alsina での公演の後、スカートをはいたガルデルGardel con polleras と命名した。
<フランシスコ・カナロ>楽団と一連の素晴らしい録音を残したが、その後は常にギター伴奏で活躍。
1948年、モンテビデオでの公演中に<ネリー・オマール>は<アニバル・トロイロ>とマンシの作品スールSurを初演させている。
1955年のペロン政権崩壊後、長く政治的迫害を受け、1970年代に、シンプルなガウチョのポンチョを着て活動を再開した。
94歳で、現在も活動し、録音を続けている。


(イグナシオ・コルシーニ)
1922/Canta/作曲、歌手、俳優
1907年に、アポロ劇場で彼をデビューさせた。
1916年には映画サントス・ベガで俳優デビュー。
1922年サイネテキャバレーの踊り手のなかでパトテロ・センティメンタルを歌い、爆発的にヒットした。
1920~30年代、国民的歌手の中でも、<カルロス・ガルデル>、<アグスティン・マガルディ>とともに人気をはくしている。
彼のカラーは、その特徴ある声と個性的なスタイルにあり、ギターリストの<エンリケ・マシエル>と詩人{ペドロ・ブロンベルグ}による作品が際立っている。


(フリオ・マルテル)
1943/Canta/男性歌手
1943年に<アルフレド・デ・アンジェリス>が開いたオーディションに参加することとなる。
数多くの応募者の中、ピアノ奏者フアン・ラウレンサ(Juan Larenza)の試験を受け、合格となる。
<アルフレド・デ・アンジェリス>は<フリオ・マルテル>と<フロレアル・ルイス>をボーカル・セクションに持った。
<フロレアル・ルイス>が楽団を脱退した後、<カルロス・ダンテ>が加入し、<カルロス・ダンテ>と<フリオ・マルテル>がデュオ形式で歌うスタイルを確立した。


(エンリケ・カンポス)
1940/Canta/男性歌手
<リカルド・タントゥーリ>が率いるオーケストラにて<アルベルト・カスティージョ>の座を引き継いだ。
1940年代を代表する歌手の一人とされている。
<リカルド・タントゥーリ>との成功はオルケスタを継続すると同時に、1946年の4月、ギター伴奏でソリストシンガーとなる事を可能にした。
しかしながら1947年の3月には、<フランシスコ・ロトゥンド>のバックボーカルに逆戻りしてしまう。
1952年には{ロベルト・カロ}のオルケスタ歌手となり、その2年後、<フランシスコ・ロトゥンド>との三度目の時期を迎える。
その後、ソロに専念。


(フリア・センコ)
1990/Canta/女性歌手、現役
1990年代の終わりに
<アストル・ピアソラ>とフェレールのオペラ【ブエノスアイレスのマリア】(Maria de Buenos Aires)で主演し好評を得た事により、タンゴへ没頭するようになった。
1999年には彼女の歌声を聞いたチェロ奏者ヨーヨーマが日本ツアーで共演するため彼女を招待した。
2000年にはニューヨークのカーネギーホールで{ゲーリー・バートン}(Gary Burton)、{ジョー・レバーノ}(Joe Levano)、{パキート・デ・リベラ}(Paquito D'Rivera)、<パブロ・シーグレル>の伴奏でタンゴの名曲を活躍。
彼女のアルバム【タンゴ・ポル・ボス】(Tango por vos)は2002年ラテン・グラミー賞でノミネートされた。


(ミゲル・モンテーロ)
1925/Canta/男性歌手
<フランシスコ・ロムート>、<ペドロ・マフィア>、<フアン・カルロス・コビアン>、<オスバルド・プグリエーセ>で歌っていたのち独立を果たした。
共演したのは、<オラシオ・サルガン>や<マリアーノ・モーレス>、<ホセ・リベルテーラ>、<アルマンド・クーポ>など。


(アルベルト・モラン)
1950/Canta/男性歌手、ソロ
<オスバルド・プグリエーセ>楽団の舞台で彼のロマンティックなイメージは、多様性を持った優れた歌手たちとは一味違ったものだった。
1954年<オスバルド・プグリエーセ>楽団を脱退、最初の数年は<アルマンド・クーポ>楽団の伴奏でソロ歌手として活動した。


(アルベルト・ゴメス)
1932/Canta/作曲、男性歌手
彼のテノールの個性的なスタイルは、<カルロス・ガルデル>、<アグスティン・マガルディ>、<イグナシオ・コルシーニ>、<チャルロ>が全盛の時代にあっては最良の歌手の一人。
1932年半ば、<アルベルト・ゴメス>のソロがより大きな存在感を示すようになる。
楽団のリフレイン・ボーカリストとして、ニコの名で<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>などで歌っている。
後年には <エドガルド・ドナート>や<ペドロ・マフィア>とも録音を残している。


(ルイス・ディアス)
1926/Canta/男性歌手、作詞
<フリオ・デ・カロ>楽団や{ドナート=セリージョ}楽団、<オスバルド・フレセド>楽団、{オルケスタ・ティピカ・ブルンスウィック}などで活躍。


(ウーゴ・デル・カリル)
1935/Canta/男性歌手、俳優、映画監督、作詞
1935年、<エドガルド・ドナート>楽団で歌って人気が上昇。
1936年にラジオ局【LR1ラジオ・エル・ムンド】(Radio El Mundo)で活躍。


(ホルヘ・ビダル)
1980/Canta/男性歌手
<オスバルド・プグリエーセ>の楽団へと移り、幾つかの録音を残し、40年代末のタンゴの歴史に名を刻んだ。
<フランシスコ・カナロ>の最後のミュージカル・コメディにも参加した。
1980年代に精力的に活動し、自身のラジオ番組も持ち、アルゼンチン歌手連盟を1986年に設立した。
{エクトル・マリア・アルトーラ}(Hector Maria Artola)や<エクトル・スタンポーニ>率いる楽団の伴奏で録音を残している。

(マリア・デ・ラ・フエンテ)
1954/Canta/女性歌手
<フランシスコ・ロトゥンド>で活躍。
2005年頃の映画「12タンゴ」に出演し、「エン・カルネ・プロピア」などを歌う。


(ティタ・メレージョ)
1926/Canta/女性歌手、女優、ダンサー、作家
1920年代終わりから1930年代の初め、アルゼンチン映画界におけるドラマチックで偉大な女優。
<ソフィア・ボサン>の流れを汲んだ明るいタンゴのスタイルを公演に取り入れた。
1933年からほぼすべての活動を劇場と映画に集中する。
最初のトーキーによる長編映画タンゴ(モグリア・バルス監督、1933年)に出演。
彼女は政治的活動により、フアン・ドミンゴ・ペロンの独裁以後追放された。
1964年から1969年まで、{カルロス・フィガリ}の楽団と録音を行った。
1979年には<エクトル・バレラ>楽団とも録音した。


(アダ・ファルコン)
1927/Canta/女性歌手
個性的な声によって、<アダ・ファルコン>は評価の高い女性歌手となった。
1925年ビクトル・レーベルでの録音。
<オスバルド・フレセド>楽団の伴奏で残した4曲に始まる。
1929年<フランシスコ・カナロ>楽団の伴奏でリフレイン歌手として録音を残すようになる。
また、同じく1929年LR10ラディオ・クルトゥーラの番組でラジオ放送でもデビュー。
1930年代初めには、<アダ・ファルコン>と<フランシスコ・カナロ>の関係はロマンスに発展しており、彼女は<フランシスコ・カナロ>にインスレーションを与えたミューズでもあり、多くの曲が<フランシスコ・カナロ>から<アダ・ファルコン>に捧げられている。
1930年代半ばまで深まり続けた。
しかし、この伝説のカップルが生活をともにすることはなかった。
宗教に人生を捧げるため早期に引退し、1942年以降の<アダ・ファルコン>の人生は伝説となっている。


(オスカル・アロンソ)
1936/Canta/歌手
彼は1936年に、{ホセ・カネ}をはじめとするさまざまなギターリストの伴奏を行い、時には{アルヘンティーノ・ガルバン}率いるオーケストラの伴奏も行い、<エクトル・アルトラ>との驚異的な時代と最終ステージを迎えた。


(リベルタ・ラマルケ)
1920/Canta/ソロ女性歌手、女優
悲劇からにぎやかなミロンガにいたる膨大なレパートリーを持つ歌手。
アルゼンチンとメキシコ映画界におけるメロドラマのヒロインでもある。
<エンリケ・サントス・ディセポロ>


(アグスティン・マガルディ)
1930/Canta/男性歌手
1923年、できたばかりのラジオの仕事を求めてやってきた。
ここで伝説的な歌手<ロシータ・キロガ>と出会い、<ロシータ・キロガ>は<アグスティン・マガルディ>の出演を後押し、ドゥオで数曲を録音した。
<アグスティン・マガルディ>の哀愁あふれる声とドラマチックな彼のレパートリーやそのスタイルは人気があった。
1925年、ギターリスト・歌手の{ペドロ・ノダ}と知り合い、{ドゥオ・マガルディ=ノダ}を組み成功を収める。
1930年代にものすごい人気を誇り、1920~30年代の国民的歌手の3人


(アドリアナ・バレーラ)
1990/Canta/女性歌手
独自の個性を潰すことなく、<エンリケ・カディカモ>の未発表曲からCD<バホフォンド・タンゴ・クラブ>に収められたエレクトニック調のペルフメ(Perfume)に至るまで、タンゴというジャンルをありとあらゆる角度から表現している。


(アスセナ・マイサニ)
1926/Canta/女性歌手
タンゴにおいて、リズムに対する正確さよりも、フレージングに重きを置いた最初の歌手でもあった。
よく男装、あるいはガウチョの服装で歌っており、個性的なスタイルを持った、人気ある女性歌手の一人となった。


(タニア)
1930/Canta/女性歌手
1920年30年代舞台での存在感は圧倒的であった。
1951年のディスセポリンの死後、彼女が所有し、キャバレーカンバラチェで生涯ホスト役を全うした。
90歳代で舞台【ディスセパロ・イ・ノソートラス】(Discepolo y nosotras)をブエノスアイレスとモナコで上演している。


(ソフィア・ボサン)
1936/Canta/歌手、女優
<エンリケ・サントス・ディセポロ>の有名なタンゴ ジーラ・ジーラ Yira…yiraの初演者した人物。
1931年に出演、<カルロス・ガルデル>と共演した。
1936年では{ペペ・アリアス} Pepe Arias、<チャルロ>と共演。

(アメリータ・バルタル)
1968/Canta/女性歌手
<アメリータ・バルタル>は<アストル・ピアソラ>の30以上の作品にその重厚な声を刻み込む。
1968年、<アストル・ピアソラ>と<オラシオ・フェレール>作の小オペラ【ブエノスアイレスのマリア】(Maria de Buenos Aires)主人公を演じる。
バルタールは私生活でも{ピアソラ}結ばれていた。


(ギジェルモ・ガルベ)
1980/Canta/男性歌手
1977年には【エル・ビエホ・アルマセン】で<オラシオ・サルガン>のグループで歌う。
1980年ピアノ奏者の<オスバルド・タランティーノ>と詩人{フアンカ・タベーラ}の指揮でファースト・アルバムを制作した。
{フアンカ・タベーラ}とは長く活動上のパートナーとなり、<ギジェルモ・ガルベ>は彼の作品の代表的な歌手となった。


(マリア・グラーニャ)
1970/Canta/女性歌手
19歳の時、<オスバルド・プグリエーセ>と知り合い、プグリエーセ楽団で2年間に渡って、専属歌手<アベル・コルドバ>と共に歌うチャンスを得た。
1970年代の歌手の中では際立った存在であり、30年以上のキャリアを持ち、タンゴの伝説的なアーティストと共演、【カーニョ・カトルセ】 、【ミケランジェロ】、【エル・ビエホ・アルマセン】などブエノスアイレスの代表的なタンゲリーアに出演している。
1983年、{クラウディオ・セゴビア}(Claudio Segovia)と{エクトル・オレソリ}(Hector Orezzoli)による【タンゴ・アルヘンティーノ】にも出演し、パリでの初演以降、ブロードウェイ公演ではアメリカの新聞にアルゼンチンのジュディ・ガーランド(Judy Garland)と評された。
1992年、【ロコへのバラード】(Balada para un loco)の作詞者の<オラシオ・フェレール>と共同でショーを行う。


(ラウル・ラビエ)
1953/Canta/男性歌手、ソロ
1953年、<ビクトル・ブチーノ>の楽団の伴奏でブエノスアイレスのラジオ局【エル・ムンド】(El Mundo)でデビューを果たす。
人気の<エクトル・バレラ>の楽団歌手。
<エクトル・スタンポーニ>と{スタンポーニ-ラビエ}楽団を結成したりもした。
<アストル・ピアソラ>の作品を歌うなど、彼のレパートリーはスール(Sur)ボルベール(Volver)など。
<アストル・ピアソラ>の五重奏団の歌手を務め、何度もツアーに同行している。
【タンゴ・アルヘンティーノ】(Tango Argentino)に出演し、世界中で上演している。


(ルベン・フアレス)
1956/Canta/作曲、歌手、バンドネオン
<フリオ・ソーサ>のギターリストだった{エクトル・アルベーロ}と共に、国内ツアーをおこない、{オラシオ・キンターナ}と知り合う。
この出会いは、それからの歌手としての彼のキャリアに大きな影響をおよぼす。
1960年代末、この世を去った人気歌手<フリオ・ソーサ>に取って代わるだけでなく、その後数十年にわたって、タンゴ界のキーパーソンとして活躍した。
1987年にはマルコス・スリナガ監督の映画【タンゴ・バー】にも出演した。
<メルセデス・ソーサ>やバレエダンサーのフリオ・ボッカとも共演。
ヨーロッパとラテンアメリカ全土をめぐるツアーもおこなった。


(メルセデス・シモーネ)
1922/Canta/ソロ女性歌手
1920年代1930年代に幅広い個性とスタイルで活躍した歌手七星の1人。
バイア・ブランカ市のカフェバー【ロス・ドス・チーノス】(Los Dos Chinos)でプロデビューを果たした。
その後、ブエノスアイレスのカフェ【ナシオナル】(Nacional)やキャバレー【シャンテクレール】(Chantecler)で歌う。
1927年からレコーディングを始め、メディアに出演し、人気になる。


(エルナン・サリナス)
1980/Canta/男性歌手
歌とタンゴについての研究を行う人として、彼をタンゴ界の重要人物に押し上げる事となった。
1976年にブエノスアイレス市が主催したOTI歌手フェスティバルの際、エルナン・サリナスの芸名で歌い始めた。
黄金の1940年代の生き残りで二つの偉大な楽団の<オスバルド・プグリエーセ>と<アルフレド・デ・アンジェリス>とレコーディングを行った。
1980年から<カルロス・ガルシーア>とルベン・ガレージョ(Ruben Garello)が共同指揮をとる<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>にて歌手を務める。
歌手として在籍中は、アルゼンチンでの数え切れない公演に加え、世界中をツアーして回った。
1987年には<オラシオ・フェレール>と<アストル・ピアソラ>のオペラ【ブエノスアイレスのマリア】(Maria de Buenos Aires junto)に出演するためヨーロッパに行った。


(スサーナ・リナルディ)
1960/Canta/女性歌手
彼女の出現により、1960年代の画一的で、制限されたタンゴシーンが変わる。
歌と演技の教育を同時に受ける(国立音楽学院と国立演劇学院)
<メルセデス・シモーネ>や{エディット・ピアフ}(Edit Piaff)などのアーティストの影響を受けた。
フィンランド大統領から勲章を授かり、フランスでは芸術や文学の勲章受けた者として知られ、ユネスコ親善大使として任命される。


(アンヘル・ディアス)
1956/Canta/男性歌手
<ロベルト・ゴジェネチェ>へ影響を強く与えた実力派の歌手であった。
1947年に<フロリンド・サッソーネ>の楽団ボーカルとしてデビューする。
1950年にピアノ奏者<オラシオ・サルガン>の楽団に参加し、その頃、新進の歌手<ロベルト・ゴジェネチェ>と知り合う。
1956年から<アンヘル・ディアス>はソリストとして活動。
<ロベルト・ゴジェネチェ>の名声により<アンヘル・ディアス>にも再び注目が集まり、パレルモ地区の【カフェ・オメーロ】での夜間興行で遅ればせながらの共演を果たした。


(ペドロ・ラウガ)
1940/Canta/男性歌手、作詞
<フリオ・デ・カロ>楽団や<ペドロ・マフィア>楽団、{ルイス・ペトゥルチェーリ}で活躍。
同じく歌手の{ファン・ラウガ}とは兄弟。
(ネストル・ファビアン)
1961/Canta/男性歌手
1961年<ネストル・ファビアン>はピアノ奏者で作曲家。
<マリアーノ・モーレス>楽団の歌手としてデビューした。
<マリアーノ・モーレス>楽団とテレビにも出演、レコードも録音し、<ビルヒニア・ルーケ>や<スシィ・レイバ>といった大歌手と看板を分かち合い、ミュージカル・コメディに出演した。
楽団の伝統的な専属歌手がソロ歌手に取って代わり、レコードとテレビの分野で張り合い、そのキャリア、スタイル、レパートリーにおいて<ネストル・ファビアン>は歌手の模範であった。
