Tango Artist - Orquesta

Orquesta(81)  Canta(104)  member(37)  Orquesta2(31)  Electronica(21)  Compositor(13)  Cafe De Los Maestros(15)  

Carlos Di Sarli

(カルロス・ディ・サルリ)

1939/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

<オスバルド・フレセド>楽団とウンベルト・カナロ楽団のピアニストであった。
1940年以降であり、ダンサーたちに愛された。
辛口で滅多に賛辞をおくらない<アニバル・トロイロ>からも賞賛された。
<カルロス・ディ・サルリ>のスタイルは、リズムのしっかりしたダンサブルな感じ、ソロと変奏がほとんど登場しない統一感が強い。

Juan D'Arienzo

(フアン・ダリエンソ)

1937/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

1928年に自己のグループを組み、その頃<フアン・ダリエンソ>はヴァイオリンから指揮棒になった。
彼の楽団のシンプルかつ力強いリズムを持ったスタイルは、1937年以降タンゴ・ダンス人気の復活における鍵となった。
リズムの王様という仇名をつけられていた。
追い立てるようなリズムの刻みと常にピアノが参加するとてもダンサブルな彼の楽団のスタイルの決定には<ロドルフォ・ビアジ>の貢献が決定的だった。
1970年代半ばまで活躍した1000曲近い録音を残した。

Francisco Canaro

(フランシスコ・カナロ)

1916/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

<ビセンテ・グレコ>楽団の活動の後、1916年に自身のグループを結成。
1910年代にリズムを強調した「タンゴ・ミロンガ」で評判を得る。
1925年にパリとアメリカへ。
1940年に<フランシスコ・カナロ>によって{ピリンチョ五重奏団}(Quinteto Pirincho)を結成 1961年には来日。
指揮者として4000曲という録音数がある。
オデオンの5大楽団」のひとつ。

Alfredo De Angelis

(アルフレド・デ・アンジェリス)

1941/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1941年自己の楽団を結成、軽妙でダンサブルなリズムで人気ある楽団の一つ。
<アンセルモ・アイエタ>楽団とグラシアーノ・デ・レオーネ Graciano De Leone 楽団で演奏。
1936年{ダニエル・アルバレス} Daniel Alvarez楽団のメンバーとなり、1939年{フランシスコ・ラウロ}Francisco Lauro 率いる{ロス・メンドシーノス} Los Mendocinos に参加。

Alfredo Gobbi

(アルフレド・ゴビ)

1907/Orquesta/ゴビ夫妻の息子

タンゴの先駆者の1人。
歌のタンゴの最初のスターに数えられるし、フランスにタンゴをいち早く輸出もしている。
ほかに先駆けたレコード録音と音楽出版という。
1907年夫婦で<アンヘル・ビジョルド>と共に、ガット&チャベス(Gath&Chaves)社のレコード録音でパリへ旅立ち、定住して公演やダンス教室を開く。
パリ滞在中に<アルフレド・ゴビ>が生まれる。

Osvaldo Fresedo

(オスバルド・フレセド)

1918/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

1918年、自己の楽団を結成、メンバーに<フリオ・デ・カロ>がいた。
1920年、<エンリケ・デルフィーノ>、{ティト・ロカタグリアータ}と共にアメリカに。
1928年パリへ行き、【エル・ガロンリドアンバサドゥール】といった有名なキャバレーで演奏する。
従来の楽団編成にハープ、ブラス、ドラム、バイブラフォンを加えたこと、有名なジャズ・トランペッター{ディジー・ガレスピー}との共演録音は彼の革新性を象徴するものとなっている。
<フランシスコ・カナロ>と共にキャバレー【モンマルトル】に出演した。
オデオンの5大楽団」のひとつ。

Osvaldo Pugliese

(オスバルド・プグリエーセ)

1939/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

ピアノを<アンヘル・ダゴスティーノ>、{テネンソフ、エスカラムーサ}、{ルビオーネ}に学んだ。
<ロベルト・フィルポ>、<ペドロ・マフィア>の楽団でも演奏した。
<エルビーノ・バルダーロ>と楽団を結成した時にはすでに最良のピアニストの一人と考えられていた。
その後の<ペドロ・ラウレンス>、<アルフレド・ゴビ>、ダニエル・アルバレス、<ミゲル・カロー>楽団でも演奏した。
1939年から自己の楽団を率い、デ・カロ楽派の素晴らしい結実した。
それは乾いた、短く、反抗的な打音にあらわれる思いの集約であり、しかし決してタンゴからやさしさを奪ってはいない。
特徴的なリズムはジュンバと呼ばれる。
<オスバルド・プグリエーセ>楽団に属した音楽家 ●バンドネオン奏者 <オスバルド・ルジェーロ> <ホルヘ・カルダーラ> <フリアン・プラサ> <ビクトル・ラバジェン> <フアン・ホセ・モサリーニ> <エミリオ・バルカルセ> ●ヴァイオリン奏者 {エンリケ・カメラーノ} {オスカル・エレーロ} {シモン・バジュール} {マウリシオ・マルチェリ} ●コントラバス奏者 {アニセト・ロッシ} {アルシーデス・ロッシ} {フェルナンド・ロマーノ} ●ピアノ奏者 {オスバルド・マンシ} <アルマンド・クーポ> {エルネスト・ロメロ}

Edgardo Donato

(エドガルド・ドナート)

1930/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

モンテビデオにあるフランツリスト音楽院に通い、音楽を習得する。
ピアニストの{エンリケ・デルフィーノ}が在籍する楽団や、ジャズピアニストの{カルロス・ウォーレン}の楽団を渡り、<エドゥアルド・アローラス>楽団にも籍を置いて、ブエノスアイレスに戻ってくる。
1927年に、{ロベルト・セリージョ}と共に、{ドナート・セリージョ楽団} (Orquesta Donato-Zerrillo) を設立する。
1930年に、{ロベルト・セリージョ}がチリに移住し、<エドガルド・ドナート>楽団 (La orquesta de Edgardo Donato)となる。

Rodolfo Biagi

(ロドルフォ・ビアジ)

1938/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

<フアン・マグリオ>楽団で2年以上在籍し、その後{ミゲル・オルランド}の楽団にもいた。
1930年<カルロス・ガルデル>のレコ-ディングで数曲伴奏する。
<フアン・ギド>、<フアン・カナロ>とも演奏した。
1935年の<フアン・ダリエンソ>楽団において編曲家として、エネルギッシュなスタカートと神経質なリズムに貢献した。
<ロドルフォ・ビアジ>はミロンガで好む楽団リーダーになている。
1938年自己の楽団でもそれを引き継いだ。

Aníbal Troilo

(アニバル・トロイロ)

1937/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

彼は、若くからバンドネオニスタとしての才能を発揮した。
1932年には、<フリオ・デ・カロ>、その1年後には<アルフレド・ゴビ>と共演。
続いて、<エルビーノ・バルダーロ>、<アンヘル・ダゴスティーノ>、<エンリケ・サントス・ディセポロ>、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>楽団(Orquesta Tipica Victor)、<フアン・カルロス・コビアン>とも共演している。
1937年、<アニバル・トロイロ>は自身のオルケスタを結成。
<アニバル・トロイロ>のオルケスタも、<カルロス・ガルデル>の残したスピリットを守り、<アストル・ピアソラ>よりも前に前衛的な音楽に挑戦し、楽団メンバーの構成や指揮、編曲に、細部にわたってこだわりを見せた。

Pedro Laurenz

(ペドロ・ラウレンス)

1934/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

1924年に<フリオ・デ・カロ>楽団に参加。
<ペドロ・マフィア>が<フリオ・デ・カロ>楽団から離れた時、<ペドロ・ラウレンス>はトップバンドネオンとなる。
1934年自己の楽団を結成。
楽団解散後は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、<ウバルド・デ・リオ>、{ラファエル・フェロ}と共に<キンテート・レアル>を結成した。
<キンテート・レアル>は、3回来日を果たしている。

Orquesta Tipica Victor

(オルケスタ・ティピカ・ビクトル)

1926/Orquesta/楽団

オデオン社が有名人を揃えたゴールデンメンバーでタンゴ楽団を迎えたのに対し、 ビクター社は新人を青田買いという逆の方針で音楽家を迎えた。
ビクトルは、ビクターのスペイン語読みで、ラジオが中心で、ライブをしないタンゴ専門集団になる。
1925年から1944年の間にメンバーが出たり入ったりを繰り返している。
<ルイス・ペトルチェリ>が<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>の初代指揮者となった。

Ricardo Tanturi

(リカルド・タントゥーリ)

1937/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1937年にはラジオ局【LR1ラジオ・エル・ムンド】(El Mundo)と契約し、レコーディング開始。
リズミカルで踊りやすい伝統的なタンゴを演奏した。
<リカルド・タントゥーリ>楽団。
<アルベルト・カスティージョ>がボーカルとして所属するなど、40年代初頭にヒットしたタンゴ・オルケスタとなった。

Francisco Lomuto

(フランシスコ・ロムート)

1923/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1922年には自身のオーケストラを持ち、1922年から1950年の間に950曲以上を録音しました タンゴの特徴は、減七度で終わる独特のエンディングで、力強いビートを持つ。
<フランシスコ・カナロ>や<ロベルト・フィルポ>と同時期のアーティストでタンゴの黄金時代を作った。
オデオンの5大楽団」のひとつ。

José Basso

(ホセ・バッソ)

1947/Orquesta/作曲、楽団、ピアニスト

1943年に<オルランド・ゴニ>の替わりとして <アニバル・トロイロ>のオルケスタに入り、素晴らしい演奏を見せた。
彼の特徴となったのは荒々しさと非常にミロンガ的な演奏だった。
1947年に自身のオルケスタを結成し、その死まで維持し続けた。
そのオルケスタはバンドネオン奏者{フアン・カルロス・ベラ}(Juan Carlos Bera)、ヴァイオリン奏者{ウーゴ・バラリス}(Hugo Baralis)、{オスバルド・ロドリゲス}(Osvaldo Rodriguez)などの演奏家を有した。
40年代に作られた数々の楽団の中で、<ホセ・バッソ>のものはもっとも長く続いた楽団の一つとなった。

Miguel Caló

(ミゲル・カロー)

1928/Orquesta/楽団

1927年に<フランシスコ・プラカニコ>のオルケスタに入り、1928年に自身の楽団を結成した。
オルケスタの特徴は、<オスマル・マデルナ>のピアノ演奏から生まれる軽快なリズムや、インストゥルメンタルを多用するなど踊りやすさがあげられる。
彼のオルケスタには、1940年代のタンゴの時代を作った<アニバル・トロイロ>、<ドミンゴ・フェデリコ>、ヴァイオリン奏者の<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>、<オスマル・マデルナ>など在籍した。

Enrique Rodriguez

(エンリケ・ロドリゲス)

1936/Orquesta/楽団、バンドネオン

彼はバンドネオン奏者であったが、時にピアノやヴァイオリンも演奏した。
{アントニオ・グットマン}(Antonio Gutman)、<フアン・マグリオ>、<フアン・カナロ>、<リカルド・ルイス>・ブリグノーロ(Ricardo Luis Brignolo)、<エドガルド・ドナート>の楽団や、{ホアキン・マウリシオ・モラ}(Joaquin Mauricio Mora)が指揮する六重奏団などを渡り歩いた。
1934年、ラジオ局【LR3ラジオ・ベルグラーノ】(LR3 Radio Belgrano)にて歌手 <フランシスコ・フィオレンティーノ>の伴奏を行うトリオのメンバーとなった。
1935年には結婚する事となる歌手の{マリア・ルイサ・ノタル}(Maria Luisa Notar)の伴奏のため四重奏団を結成した。
1936年、自身の楽団の指揮を取り始める。
柔軟性はあらゆるリズムを奏でる。

Armando Pontier

(アルマンド・ポンティエル)

1945/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

1939年、<ミゲル・カロー>楽団に参加、<エンリケ・フランチーニ>、<オスマル・マデルナ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ドミンゴ・フェデリコ>などの優れたメンバーと一緒に演奏した。
1945年<エンリケ・フランチーニ>と共に<フランチーニ-ポンティエル>楽団を率い、1955年まで活動した。

Domingo Federico

(ドミンゴ・フェデリコ)

1945/Orquesta/楽団、バンドネオン

<ドミンゴ・フェデリコ>は<フアン・カナロ>の楽団へ移り、1941年には<ミゲル・カロー>の楽団にてその座を確固たるものとした。
1940年代の半ばに自身の楽団を持つに至る。
若者によって構成された楽団、{ロサリオ国立大学タンゴ青年オルケスタ}(Orquesta Juvenil de Tango de la Universidad Nacional de Rosario)では教師として賞賛を受け、芸術活動としても素晴らしい結果を残した。
  1961年に<フランシスコ・カナロ>の日本ツアーでバンドネオン奏者を務め、その後、自身の楽団でも度々日本ツアーを行った。

Osmar Maderna

(オスマル・マデルナ)

1945/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

<ミゲル・カロー>楽団から<エクトル・スタンポーニ>が抜けた後、<オスマル・マデルナ>が代わりに入団、ここからマデルナの成功の歴史が始まることになる。
<ミゲル・カロー>楽団には1945年まで留まり、同年1945年、自己の楽団を持ち、歌手<ラウル・イリアルテ>を一緒に連れていった。
<ドミンゴ・フェデリコ>、<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>と人気を分かち合った。

Orquesta Típica Los Provincianos

(オルケスタ・ティピカ・ロス・プロビンシアーノス)

1930/Orquesta/楽団

<オルケスタ・ティピカ・ロス・プロビンシアーノス>の設立。
その後に優れた2名のギター奏者をしたがえたトリオを結成した。

Angel D'Agostino

(アンヘル・ダゴスティーノ)

1940/Orquesta/楽団、ピアノ

<アンヘル・ダゴスティーノ>楽団は、<アンヘル・バルガス>という人気歌手を擁していた ことで有名な楽団。
<アンヘル・バルガス>が1946年に楽団を離れてからも1963年に引退するまで断続的に演奏を続けた。
タンゴ歌手の阿保郁夫さんは、<アンヘル・バルガス>の歌を聴いて、タンゴに。

Héctor Stamponi

(エクトル・スタンポーニ)

1933/Orquesta/作曲、ピアノ

<エクトル・スタンポーニ>はブエノスアイレスのラジオ・オーディションでデビューした後、トリオを結成するためエレルトの楽団を離れた<アルマンド・ポンティエル>、<エンリケ・フランチーニ>と3人で、ラジオ局【LR2ラジオ・アルヘンティーナ】(LR2 Radio Argentina)に出演する歌手たちの伴奏をおこなった。
1937年から1938年まで{フェデリコ・スコルティカティ}(Federico Scorticati)の楽団やレコード会社ビクターでピアニストを務めた。
その後、<ミゲル・カロー>の楽団へと移る。
1959年には{ロス・ビオリネス・デ・オロ・デル・タンゴ}(Los Violines de Oro del Tango)を<エンリケ・フランチーニ>と共同で指揮した。
最後のカフェ(El ultimo cafe)、ワルツ曲星空の下(Bajo un cielo de estrellas)亜麻の花(Flor de lino)空のかけら(Pedacito de cielo)などの不朽の名作を作曲した。

Roberto Firpo

(ロベルト・フィルポ)

1924/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

ピアノ奏者で作曲家の<アルフレド・ベビラクア>の指導で音楽の知識を体系化した。
<ロベルト・フィルポ>は、楽団編成にピアノを組み込むことに決定的役割を果たした。
1913年、キャバレー【アルメノンビル】 (Armenonville)で自己の楽団でデビューした。
楽団メンバーとして在籍したのは、<エドゥアルド・アローラス>、 ヴァイオリンの{ティト・ロカタグリアータ} (Tito Roccatagliata)、後年には、<ペドロ・マフィア>、<エルビーノ・バルダーロ>、<オスバルド・プグリエーセ>、<カルロス・ガルシーア>などがいた。
オデオンの5大楽団」のひとつ。

Héctor Varela

(エクトル・バレラ)

1950/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

歌手<ティタ・メレージョ>の伴奏楽団にも参加し、1934年にはわずかの間ではあるが初めて<フアン・ダリエンソ>楽団へ加わっている。
1939年彼自身による初の楽団を編成するが、数ヵ月後にはダリエンソに呼び戻され、<エクトル・バレラ>は自身の楽団を解散し、1940年から1950年の間メイン・バンドネオニスタとして活躍した。
そして1950年、再度自身の楽団結成を決意し、活動開始後すぐに大成功を収めた。
彼の楽団の最初の歌手は、<アルマンド・ラボルデ>と{ロドルフォ・レシーカ}(Rodolfo Lesica)で、この時期にその後彼の楽団に一貫してみられる演奏スタイルを確立している。

Florindo Sassone

(フロリンド・サッソーネ)

1947/Orquesta/楽団、ヴァイオリン

1931年に<ロベルト・フィルポ>の楽団に加わり、1933年には<オスバルド・フレセド>の楽団に移り、その楽団のスタイルは彼に強い影響を与えた。
1936年に<フランシスコ・アモール>を歌手にはじめて自身の楽団を結成する。
1947年に、歌手<ホルヘ・カサル>と共演したその後人気を得た。
<ホルヘ・カサル>が去った後、<オスバルド・プグリエーセ>の楽団を離れたばかりだった<ロベルト・チャネル>が加わる。
その他、共演した歌手には、<アンヘル・ディアス>などがいた。
また<オスバルド・レケーナ>、{ルシアーノ・レオカタ}(Luciano Leocata)、{アルマンド・クーポ}(Armando Cupo)なども彼の楽団に所属した。
1972年にはコロン劇場の舞台に立った。
自身の楽団とは別に、人気の{セステート・ドン・フロリンド}(Sexteto Don Florindo)の指揮も行った。

Lucio Demare

(ルシオ・デマーレ)

1936/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

<フランシスコ・カナロ>楽団で演奏、その後自己の楽団を結成。
楽団リーダーとしては、ダンサブルなアレンジに、メランコリックな音色がある。
スペインでデビューし、アメリカ大陸を廻り、大きな成功を収め、多数の録音を残した。

Carlos García

(カルロス・ガルシーア)

1960/Orquesta/楽団、ピアノ

1932年には、<ロベルト・フィルポ>のオルケスタ・ティピカにピアノ奏者として加入した。
1936年から1938年まで<セバスティアン・ピアナ>の代理として、歌手<メルセデス・シモーネ>のレコーディングやライブに伴奏のトリオの一員として参加している。
1946年には教鞭をとり始め、ソリストとしての演奏や、フォルクローレ楽団の指揮も行った。
1960年からはラジオ局【LS1ラジオ・ムニシパル】(Radio Municipal)にて、1983年まで所属したオデオン・レーベルと同様に音楽顧問を務めた。
1980年代から先の<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>で、<カルロス・ガルシーア>はもっとも伝統的な曲々の編曲を担当した。

Julio De Caro

(フリオ・デ・カロ)

1924/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

革新的なタンゴの流れをつくってきたデ・カロ楽派。
<フリオ・デ・カロ>は、ピアニストで弟の<フランシスコ・デ・カロ>とともに、<オスバルド・フレセド>と<フアン・カルロス・コビアン>の進歩的なアイデアを体系化し、編曲をほどこし、表現の鍵となるソリストを参加させ、タンゴの表現力を昇華させた(当時、ほとんどソロ演奏が取り入れられていなかった)。
音楽性の高い編曲の概念を持ちこみ、楽団員には後のタンゴ界を引っ張って行くような優秀なメンバーを揃える。
<リカルド・ルイス>・ブリニョーロ、<エドゥアルド・アローラス>、<オスバルド・フレセド>らと共演し、1921年にはサン・マルティン劇場のカーニバルのダンスパーティーで指揮者としてもデビューを果たした。
1923年に<フアン・カルロス・コビアン>楽団のヴァイオリニストに戻る。
1924年バンドネオン2名、ヴァイオリン2名、ピアノ、コントラバスによる自身の六重奏団を結成。
1934年、六重奏団を解散して、オルケスタを結成。
<フリオ・デ・カロ>自身は1940年まで自身の楽団でヴァイオリンを弾いていた。
グアルディア・ヌエバと呼ばれるようになる新しい表現方法を実践する。
ヴァイオリンの演奏は艶っぽい。
オデオンの5大楽団」のひとつ。

Horacio Salgán

(オラシオ・サルガン)

1944/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ、監督

14歳の頃、<ロベルト・フィルポ>のオーケストラのメンバーギタリストの<ウバルド・デ・リオ>と活動を始始める。
1944年から自身のオーケストラの指揮を取り、その中には<レオポルド・フェデリコ>や<エルネスト・バッファ>で、歌手は、<エドムンド・リベロ>や<アンヘル・ディアス>、<ロベルト・ゴジェネチェ>。
1959年に<オラシオ・サルガン>をリーダーとして結成された五重奏。
当初のメンバーはピアノのサルガンの他、ヴァイオリン<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン<ペドロ・ラウレンス>、エレキギター<ウバルド・デ・リオ>、コントラバス{ラファエル・フェロ}。
その後メンバーの死去等もあり<アントニオ・アグリ>、<レオポルド・フェデリコ>、<ネストル・マルコーニ>らと交代。
彼は、アカデミックな音楽、ブラジル音楽、ジャズ、民俗音楽など、さまざまな要素を取り入れたて、数々の名作を生み出した。
1983年、【タンゴ・アルヘンティーノ】(Tango Argentino) のオリジナルキャストとして参加。

Enrique Francini

(エンリケ・フランチーニ)

1945/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

1938年<アルヘンティーノ・ガルバン>と演奏し、すぐ後に<ミゲル・カロー>楽団に入団、第1ヴァイオリン奏者として際立つ存在となった。
1945年<ミゲル・カロー>楽団から独立し、バンドネオン奏者の<アルマンド・ポンティエル>と10年に亘って<フランチーニ-ポンティエル>楽団を率いた。
1959年に<オラシオ・サルガン>、<ウバルド・デ・リオ>、<ペドロ・ラウレンス>、{ラファエル・フェロ}(Rafael Ferro)と共に<キンテート・レアル>を結成する。
並行して<エクトル・スタンポーニ>とドゥオを結成、{オクテート・ブエノスアイレス}(Octeto Buenos Aires)、<ロス・アストロス・デル・タンゴ>、<アティリオ・スタンポーネ>楽団にも参加した。
{ブエノスアイレス市立交響楽団}(Orquesta Filarmonica de Buenos Aires)のメンバーを務めたこともあった。

Francini-Pontier

(フランチーニ-ポンティエル)

1945/Orquesta/楽団

1945年にバンドネオン奏者<アルマンド・ポンティエル>とヴァイオリン奏者<エンリケ・フランチーニ>が、<ミゲル・カロー>の楽団を退団し、共同主宰の形で設立した楽団。
主な活動は1955年まで。

Juan Sanchez Gorio

(フアン・サンチェス・ゴリオ)

1955/Orquesta/楽団、バンドネオン

演奏スタイルはバイラブレでレパートリーは歌ものが多い。

Jorge Dragone

(ホルヘ・ドラゴーネ)

1927/Orquesta/作曲、ピアノ

歌手の伴奏楽団として、<アルベルト・カスティージョ>、<アルヘンティーノ・レデスマ>、<カルロス・ダンテ>、<アルベルト・モラン>、<フロレアル・ルイス>、<エドムンド・リベロ>など。

Pedro Maffia

(ペドロ・マフィア)

1925/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

<ペドロ・マフィア>は、バンドネオン奏者の手本となった。
<ロベルト・フィルポ>、<ルイス・ペトルチェリ>、<リカルド・ルイス>、<フアン・カルロス・コビアン>らと演奏した。
1924年から26年まで有名な<フリオ・デ・カロ>の六重奏団に参加。
その後、自己の楽団を率いた。

Ricardo Malerba

(リカルド・マレルバ)

1929/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

アルゼンチンタンゴの黄金時代のアルゼンチンのバンドネオン奏者。

Los Muchachos De Antes

(ロス・ムチャーチョス・デ・アンテス)

1969/Orquesta/楽団

映画の中で、Milonga Del 900の踊りのシーンが見られる

Héctor Artola

(エクトル・アルトラ)

1950/Orquesta/演奏家

1927年12月、{エドゥアルド・ビアンコ}(Eduardo Bianco)楽団に参加するためパリへ。
<リベルタ・ラマルケ>のバックオーケストラに加わるため、1934年にアルゼンチンへ戻り、この楽団に1937年まで所属。
{ミゲル・ニヘンソン}(Miguel Nijenson)、{ミゲル・ボナーノ}(Miguel Bonano)、<フランシスコ・フィオレンティーノ>とともに、{ロス・ポエタス・デル・タンゴ}(Los Poetas del Tango)を結成したが、その後すぐ<フランシスコ・カナロ>から声がかかる。
さらにヨーロッパから<ラファエル・カナロ>に呼ばれる。
1940年からブエノスアイレスで<ロベルト・マイダ>のバックオーケストラで<アルヘンティーノ・ガルバン>と知り合う。
<オスバルド・フレセド>楽団のバンドネオン奏者としても活動した時期もある。
【LR1ラディオ・エル・ムンド】の専属オーケストラに入り、当時のトップシンガーたちの編曲を担当した。
他にも【LR3 ラディオ・ベルグラーノ】の専属オーケストラや、ユニークなものでは{オルケスタ・シンフォニカ・アルヘンティーナ}の指揮もとっていた。
<エクトル・アルトラ>は、{オスカル・アロンソ}(Oscar Alonso)などの歌手の伴奏者として憶えられているが、1950年代に<エルビーノ・バルダーロ>楽団の編曲者としても活躍していた。

Rafael Canaro

(ラファエル・カナロ)

1959/Orquesta/作曲、コントラバス

コントラバス奏者・作曲家。
兄<フランシスコ・カナロ>楽団のパリ演奏旅行に同行し、その後のほとんどをパリに住み現地のタンゴ普及に努力した。

Francisco Rotundo

(フランシスコ・ロトゥンド)

1953/Orquesta/楽団、ピアノ

<アニバル・トロイロ>に心酔しダイナミックな楽風を目指した 1953年に<フリオ・ソーサ>が<フランシスコ・ロトゥンド>の楽団に移る この時期の<フリオ・ソーサ>は声帯に深刻な問題を抱えていたが、手術し無事回復。
それにより、さらに深く低く、歌の精神に調和した声が生まれ出た。

Lisandro Adrover

(リサンドロ・アドロベール)

1960/Orquesta/バンドネオン、映画舞台音楽

1960年代は<ホセ・バッソ>楽団と後半は<オスバルド・プグリエーセ>の楽団で演奏するなど、若くしてタンゴ界のマエストロらと共演を果たした天才バンドネオン奏者。
現在はバンドネオン奏者以外に映画や舞台の音楽を手がける。

Argentino Galván

(アルヘンティーノ・ガルバン)

1928/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

1935年以降は、<ミゲル・カロー>、<オスバルド・フレセド>、<アニバル・トロイロ>、<フランチーニ-ポンティエル>、自己の楽団のために書いた革新的な編曲によってその才能を広く認められるようになる。
1958年、<エドゥアルド・アローラス>、<アグスティン・バルディ>、<フリオ・デ・カロ>、<エンリケ・デルフィーノ>、<アンセルモ・アイエタ>という有名な作曲家の作品を体系的に演奏するため七重奏団<ロス・アストロス・デル・タンゴ>を設立。

Jorge Caldara

(ホルヘ・カルダーラ)

1950/Orquesta/作曲、バンドネオン

{フランシスコ・ラウロ}楽団でデビューしたのち<オスバルド・プグリエーセ>の楽団で活躍した。
{オルケスタ・ティピカ・トーキョー}にゲスト出演し日本の楽団に指導をした。
その後自身の楽団を結成した。

Gabriel Clausi

(ガブリエル・クラウシ)

1930/Orquesta/作曲、バンドネオン

演奏家として、彼はソロ演奏を好み、<ペドロ・マフィア>の感性と技術を受け継ぐ。
<フアン・マグリオ>、<フランシスコ・プラカニコ>、<ロベルト・フィルポ>、<フリオ・デ・カロ>、<オスバルド・フレセド>などで共演している。
1940年代には、<ガブリエル・クラウシ>楽団を結成し、その後10年以上滞在することになるチリに渡り活躍する。
若き日の<アストル・ピアソラ>も短期間滞在した。
21世紀に、ファンからの要望を受けてロックバン{ドロス・ピオホス}とゲストとして共演するなど、他ジャンルにも活躍の場を広げていた。

Victor Lavallen

(ビクトル・ラバジェン)

1968/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役

1951年、<ミゲル・カロー>の楽団に入団し、1954年まで在籍した。
<エンリケ・フランチーニ>楽団、<アルベルト・エチャグエ>=<アルマンド・ラボルデ>楽団にも在籍したのち、1958年には<オスバルド・プグリエーセ>楽団に入団し、編曲もおこなっていた。
1968年、ほかのメンバーらとともにプグリエーセ楽団から脱退。
プグリエーセ・スタイルをくんだグループ、<セステート・タンゴ>の創設メンバーとなる。
1989年、<セステート・タンゴ>とおなじく旧プグリエーセ楽団のメンバーによる<コロール・タンゴ>に参加。
1995年には、国際的に成功を収めたショー【フォーエバー・タンゴ】の楽団メンバーに、1996年からは同楽団の指揮者となった。

Genaro Espósito

(ヘナロ・エスポシト)

1910/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

トリオや四重奏から1910年頃楽団に移行していった先駆者の一人。
ブエノスイレスにおける1912年のビクトルへの録音から始まる。
<フアン・マグリオ>、<エドゥアルド・アローラス>、<ビセンテ・グレコ>や古典時代のバンドネオン奏者と同世代。
この頃ヴァイオリンの<アグスティン・バルディ>、ギターの{フェリクス・カマラーノ} Felix Camarano 、フルートの{ホセ・フステール} (Jose Fuster)と四重奏団を結成している。
1919年、モンテビデオのアルティーガス劇場で催されたダンスパーティーのために<エドゥアルド・アローラス>が編成した大編成楽団のメンバーとなった。

Donato Racciatti

(ドナート・ラシアッティ)

1942/Orquesta/作曲、バンドネオン

ダンスに適した演奏をした。
作曲者としても人気がある。

Terig Tucci

(テリーグ・トゥッチ)

1924/Orquesta/作曲、ヴァイオリニスト

1930年から1941年までは【NBC】ラジオで演奏した。

Juan Carlos Cobian

(フアン・カルロス・コビアン)

1924/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1922年<オスバルド・フレセド>楽団のメンバーとなる。
その後まもなく自己の楽団を結成 ヴァイオリン奏者の<フリオ・デ・カロ>が1924年に自己の六重奏団を結成、タンゴの最初の重要な革新を成し遂げたが、そこにはコビアンの貢献が少なくなかった。
アメリカに向かい、タンゴとジャズを演奏して数年間を過ごし、いくつかのレコードを録音。
1928年ブエノスアイレスに戻り、楽団を結成、その中には歌手<フランシスコ・フィオレンティーノ>が居た。

Anselmo Aieta

(アンセルモ・アイエタ)

1930/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

バンドネオニストとしての<アンセルモ・アイエタ>は、<ヘナロ・エスポシト>に師事し、カフェの楽団でバンドネオンを弾き始めた。
1922年に自身のオーケストラを結成するまでは、<フランシスコ・カナロ>楽団に所属していたこともある。

Osvaldo Berlingieri

(オスバルド・ベリンジェリ)

1950/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1944年歌手<エクトル・マウレ>の伴奏楽団に始まる。
その後<ドミンゴ・フェデリコ>、{ホアキン・ド・レジェス}(Joaquin Do Reyes)、<エドガルド・ドナート>、{ミゲル・カロー}(Miguel Calo)などの楽団に参加した。
1956年、<アニバル・トロイロ>の楽団に参加するまでは、歌手<ラウル・イリアルテ>の伴奏を務め、その後の<アニバル・トロイロ>楽団への参加。
<アニバル・トロイロ>楽団には約10年在籍し、その時期に決定的な自身のスタイルを確立。
力強いタンゴリズムを持ちながらも、ジャズの影響を受けた、タンゴにはあまりないコードや装飾を加えたことで、表現力豊かなスタイルを確立した。
<アニバル・トロイロ>楽団での仕事と並行して、{ロス・モデルノス}、{ロス・ノタブレス・デル・タンゴ}、<エルネスト・バッファ>との共同主宰による楽団とトリオにも参加した。
<アニバル・トロイロ>楽団を離れた後、<エルネスト・バッファ>との共演は1970年まで続いた。
その後のプロジェクトは、バンドネオン<レオポルド・フェデリコ>、コントラバス{オラシオ・カバルコス}とのトリオであった。
ヒットした歌手は、<ロベルト・ゴジェネチェ>との共演アルバムから、<オスバルド・タランティーノ>とのピアノ・ドゥオによる不思議なアルバムまで多数の録音を残している。
【タンゴ・アルゼンチーノ】の音楽監督を務めた。

Carlos Marcucci

(カルロス・マルクッチ)

1935/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

1925年、<フランシスコ・カナロ>に呼ばれ、パリ公演に同行。
【メトロポル映画館】にて、彼のもっともよく知られたタンゴわが悩み Mi dolorを初演した。
この曲の素晴らしいバンドネオン変奏は<カルロス・マルクッチ>の編曲としての才能をみせた。

Julián Plaza

(フリアン・プラサ)

1968/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、ピアノ

1945年からは{アントニオ・ロディオ} Antonio Rodio楽団、1949年からは<ミゲル・カロー>楽団に参加、カロー楽団にはほぼ10年間在籍した。
1956年 <カルロス・ディ・サルリ>楽団に移り、一方で<アティリオ・スタンポーネ>と<フロリンド・サッソーネ>のためにアレンジを書いた。
1959年<オスバルド・プグリエーセ>楽団に落ち着く。
1968年、<フリアン・プラサ>は、<エミリオ・バルカルセ>、<オスバルド・ルジェーロ>、<ビクトル・ラバジェン>、{オスカル・エレーロ} Oscar Herrero、{アルシーデス・ロッシ} Alcides Rossi と共に<セステート・タンゴ>を結成。

Sexteto Mayor

(セステート・マジョール)

1973/Orquesta/楽団

<セステート・マジョール>は、世界におけるにタンゴブームに貢献した楽団のひとつ。
<セステート・マジョール>は、実業家{ビルヒリオ・マチャド・ラモス}(Virgilio Machado Ramos)の依頼を受け、ソロ名奏者の集団として<ホセ・リベルテーラ>と<ルイス・スタソ>によって結成された。
1973年の結成以降、第一線で活躍するソロ奏者が集結しタンゴのクラシックに新しい息吹を吹き込んだ。
その代表的作品として、ヨーロッパでのタンゴ復興に火をつけ、パリでは伝説となっている【トロトワ-・デ・ブエノスアイレス】(Les Trottoirs de Buenos Aires)によってパリで不動の地位を築き、ブロードウェイでは会場を埋め尽くし世界中に【タンゴ・フィーバー】を巻き起こしたシアター・レビューの【タンゴ・アルヘンティーノ】(Tango Argentino)、音楽とダンスのショー【タンゴ・パシオン】(Tango Pasion)などがある。
楽団構成員の相次ぐ再編成により、タンゴ界の多くの一流奏者がその才能をこの六重奏楽団に寄与することになる。
1974年にはヴァイオリン奏者の{マリオ・アブラモビッチ}(Mario Abramovich)、1980年にはピアノ奏者の{オスカル・パレルモ}(Oscar Palermo)とヴァイオリン奏者の{エドゥアルド・ワルサク}(Eduardo Walczak)、1992年にはコントラバス奏者の{オスバルド・アウリシーノ}(Osvaldo Aulicino)がそれぞれ入団し、歴史にその名を残す<ルイス・スタソ>と<ホセ・リベルテーラ>両名の楽団に加わった。

Orlando Goñi

(オルランド・ゴニ)

1943/Orquesta/楽団、ピアノ

1937年<アニバル・トロイロ>が自分の楽団を結成する時に、<オルランド・ゴニ>を呼んだ。
完璧にさまざまなリズムをコンビネーションしつつ楽団全体を前に進めていくピアノ。
<ミゲル・カロー>、{マヌエル・ブソン}、<アンセルモ・アイエタ>、<フアン・カルロス・コビアン>の楽団のピアニストをつとめた。
異なるスタイルを持った4人のリーダーのもとで、彼の経験は豊かなものになっていった。
  1943年、自己の楽団を結成。
バンドネオンに{アントニオ・リオス} Antonio Rios、<ロベルト・フィルポ>、{エドゥアルド・ロビラ} Eduardo Rovira 、{ルイス・ボナット} Luis Bonnat 、ヴァイオリンに{ロランド・クルセル} Rolando Curcel、{ホセ・アマトリアン} Jose Amatriain、{アントニオ・ブランコ} Antonio Blanco、{エミリオ・ゴンサレス} Emilio Gonzalez、コントラバスに{ドミンゴ・ドナルーマ} Domingo Donarumaといったメンバー。
歌手は、<フランシスコ・フィオレンティーノ>、{アントニオ・ロドリゲス・レセンデ} Antonio Rodriguez Lesende、{オスバルド・カブレーラ} Osvaldo Cabrera、{ラウル・アルダオ} Raul Aldaoが交替で参加していった。

Eduardo Rovira

(エドゥアルド・ロビラ)

1956/Orquesta/楽団

1949年に<アルベルト・カスティージョ>の伴奏楽団を指揮し、1951年から1952年にかけて自身の楽団を率いる。
<エドゥアルド・ロビラ>は、その当時画期的であったクラシックの要素をタンゴに融合し、続いて先駆的な電子音楽をタンゴに取り入れた。
1956年再びブエノスアイレスでヴァイオリン奏者<アルフレド・ゴビ>と共演する。
歌手<アルフレド・デル・リオ>と{デル・リオ-ロビラ}(Del Río-Rovira)楽団を作る。
1961年に現代タンゴグループ(la Agrupación de Tango Moderno)を立ち上げ、その5年後にトリオを組織し、前衛タンゴへ力を注いでいく。
1960年代にかけて、オンガニアの軍事クーデター後に閉めざるを得なくなった自身の店【タンゴ・セセンタイセイス(Tango 66)】を開く前は、伝説的な場所になっていた。
{タタ・セドロン}(Tata Cedrón)や{アティリオ・スタンポーネ}などで演奏している。
1973年、ラ・プラタ国立劇場の指揮者に任命される。

Osvaldo Piro

(オスバルド・ピロ)

1963/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役

16歳の時、彼は{リカルド・ペデビジャ}(Ricardo Pedevilla)の楽団に加入する。
その後、<アンヘル・ダゴスティーノ>、<ビクトル・ダマリオ>、{ロベルト・カロ}(Roberto Calo)、<フルビオ・サラマンカ>など当時の有名な指揮者たちの楽団に招かれる。
1958年から1963年まで彼が在籍したヴァイオリン奏者<アルフレド・ゴビ>の楽団奏者として、強く人々の記憶に残っている。
1954年から2000年までは<フアン・デ・ディオス・フィリベルト>アルゼンチン音楽国立楽団の指揮者を務めた。
彼はSADAIC(アルゼンチン著作権協会)の最優秀演奏者賞を1992年、1999年の2回受賞した。

José Colángelo

(ホセ・コランジェロ)

1942/Orquesta/楽団、ピアノ

1940年代・50年代は<エドゥアルド・ロビラ>編曲での演奏をおこなった。
また歌手{エドゥアルド・ソラノ}(Eduardo Solano)の伴奏も務めた。
1959年には<オラシオ・サルガン>楽団のメンバーとラジオ局【LR3ラジオ・ベルグラーノ】の番組に出演。
1962年、<レオポルド・フェデリコ>に招かれ、歌手<フリオ・ソーサ>のピアノ伴奏をし、<フリオ・ソーサ>が1964年に亡くなるまでともにレコーディングをおこなった。
また<ホセ・コランジェロ>は、<ネストル・マルコーニ>、{オマル・ムルタフ}(Omar Murtagh)、<アニバル・アリアス>とともにカルテットを結成する。

Osvaldo Ruggiero

(オスバルド・ルジェーロ)

1950/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

17歳のころに<オスバルド・プグリエーセ>楽団に入り直接タンゴを学んだ。
同楽団で長く第1バンドネオン奏者として活躍したあと、<セステート・タンゴ>で世を去るまで演奏した。
作曲者としても<オスバルド・プグリエーセ>のスタイルに合うような名曲をいくつも残している。

Mariano Mores

(マリアーノ・モーレス)

1938/Orquesta/作曲、ピアノ

「さらば草原よ」「グリセル」といった彼のもっともヒットした作品。
1940年代は<フランシスコ・カナロ>が彼の楽団のピアニストとして<マリアーノ・モーレス>を迎え、共作を行った。
<エンリケ・サントス・ディセポロ>との「ウノ」「ブエノスアイレスの喫茶店」 <ホセ・マリア・コントゥルシ>とのグリセールクリスタル灰色の午後、<オメロ・マンシ>との「ひとしずくの涙」など。

Los Tauras

(ロス・タウラス)

1949/Orquesta/楽団、バンドネオン

バンドネオン奏者で作曲家の<カルロス・キリシ>が楽団指揮者を務める若手グループ。
メンバーは <カルロス・キリシ>:バンドネオン、楽団指揮 {ビクトル・パルマ}Victor Parma:ピアノ {ハビエル・ゴメス}Javier Gomez:ヴァイオリン {ギジェルモ・トロビアーニ}Guillermo Trobbiani:コントラバス {カルロス・ガントゥス}Carlos Gantus:ギター

Juan Canaro

(フアン・カナロ)

1954/Orquesta/作曲、バンドネオン

<フランシスコ・カナロ>の弟。

Luis Stazo

(ルイス・スタソ)

1959/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役

1949年に<アルヘンティーノ・ガルバン>楽団に参加。
1949年以降、当時第一線で活躍していた有名ソロ奏者が指揮を取る様々な楽団で活躍し、10年後には、歌手の<アンヘル・バルガス>の伴奏指揮を引き受ける。
1959年から1965年にかけて、{アルフレド・デ・アンヘリス}楽団に初めてのバンドネオン奏者として参加していた。
<ロベルト・ゴジェネチェ>のアルバム ラ・マキシマ・エスプレシオン・デ・タンゴ(La Maxima Expresion del Tango)にポラコとの共演が収録されている。
1973年には、<オスマル・マデルナ>のオーケストラで活躍した時代からの旧友<ホセ・リベルテーラ>と、第一線で活躍する選り抜きのソロ奏者4人ともに<セステート・マジョール>を結成する。
この<セステート・マジョール>は世界にその名を知り渡らせる楽団のひとつとまでとなり、【タンゴ・アルヘンティーノ】(Tango Argentino)後に、【タンゴ・パシオン】(Tango Pasion)が世界で立て続けに公演されていった。
<ホセ・リベルテーラ>の死後(2004年)<ルイス・スタソ>も<セステート・マジョール>から離れ、{スタソ・マジョール}三重奏楽団(el trio StazoMayor)を結成しバンドネオン奏者、編曲担当として指揮を取っている。
メンバーはギターリストの{ココ・ベレガッティ}(Coco Belegatti)とコントラバス奏者の{カスペル・ドンケ}(Kaspar Domke)。

Agesilao Ferrazzano

(アヘシラオ・フェラサーノ)

1926/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン

<ロベルト・フィルポ>や<フランシスコ・カナロ>の楽団で演奏した 1927年に{フリオ・ポジェーロ}(Julio Pollero)と楽団を持った。

Juan Maglio

(フアン・マグリオ)

1912/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

<フアン・マグリオ>(愛称はパチョPacho)Juan Pacho Maglio。
バンドネオン独奏のレコードを残した最初の演奏家。
パレルモ地区の【カフェ・ラ・パロマ】 (cafe La Paloma)に自己の四重奏団で出演した時で、1912年コロンビア・レコードで録音を始めると、彼の人気はさらに大きくなった。

Rafael Rossi

(ラファエル・ロッシ)

1927/Orquesta/作曲、バンドネオン

<フアン・マグリオ>楽団や{ホセ・マルティネス}楽団に所属したのち、1927年、一度自身の四重奏団を持ったがそのあと<ロベルト・フィルポ>の楽団に所属した。
彼の書いた曲は、<カルロス・ガルデル>にもたくさん歌われている。

Enrique Delfino

(エンリケ・デルフィーノ)

1919/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1919年{オルケスタ・ティピカ・セレクト}(Tipica Select)のメンバー。
ユーモアあふれるピアノ芸人としても記憶されている。

Ciriaco Ortiz

(シリアコ・オルティス)

1925/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

あまりに個性的なフレージングで際立っている。
<ロベルト・フィルポ>楽団で、<ペドロ・マフィア>の代役をつとめたことで注目を集めた。
1925年設立時から、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>のメンバーであり、その他にも{バルダロ=プグリエーセ}楽団 (Vardaro-Pugliese)、<カルロス・ガルデル>を伴奏した。
自己の楽団としては <オルケスタ・ティピカ・ロス・プロビンシアーノス>の設立

Carlos Quilici

(カルロス・キリシ)

1949/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

若手グループをロス・タウラスが率いる

Raúl Garello

(ラウル・ガレーロ)

1974/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役

ブエノスアイレスでは【LR3ラディオ・ベルグラーノ】の専属オーケストラのメンバーとなり、 その後<レオポルド・フェデリコ>の代わりに<ロベルト・フィルポ>・イホの四重奏団のメンバーとなった。
<カルロス・ダンテ>、<アルベルト・モラン>など歌手の伴奏楽団でも活動し、{ロベルト・パンセーラ}、<オラシオ・サルガン>楽団のメンバーでもあった。
その後、<アニバル・トロイロ>楽団に入団し、 1967年、それ以降、<ラウル・ガレーロ>はトロイロ楽団のすべての編曲の責任者となり、 1975年まで輝かしいキャリアを積んだ。
1974年自己の六重奏団を結成、録音も始めた。
まもなく楽団編成は拡大し、1977年の時点ではメンバーが27名にものぼった。
1980年、ピアノ奏者の<カルロス・ガルシーア>と共に、 <ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>の指揮を引き受けた。
当初からガルシーアは古典的なテーマ、<ラウル・ガレーロ>は現代的なテーマを割り当てられた。
2003年にはブエノスアイレス名誉市民に任命された。

Francisco Pracánico

(フランシスコ・プラカニコ)

1926/Orquesta/楽団、ピアニスト

1919年に、{アウグスト・ペドロ・ベルト}(Augusto Pedro Berto)の楽団ピアニストとしてバー【ドミンゲス】で演奏した。
1926年に、<フランシスコ・プラカニコ>楽団を結成。
彼はピアノと指揮、{ガブリエル・チュラ・クラウシ}(Gabriel Chula Clausi)と{ドミンゴ・スカルピーノ}(Domingo Scarpino)がバンドネオン、{マンリオ・フランシア}(Manlio Francia)と<エルビーノ・バルダーロ>がヴァイオリンを、{アンヘル・モンカガッティ}(Angel Moncagatti)がコントラバスを担当した。

Alfredo Bevilacqua

(アルフレド・ベビラクア)

1900/Orquesta/作曲、ピアノ

<アルフレド・ベビラクア>は、<ロベルト・フィルポ>に音楽の体系を指導した。

Ernesto Franco

(エルネスト・フランコ)

1942/Orquesta/楽団、作曲、バンドネオン

18歳の時、<エルビーノ・バルダーロ>楽団でデビュー後、<フアン・ダリエンソ>の楽団で活躍した。
その後、自身の楽団を持った。

Eduardo Arolas

(エドゥアルド・アローラス)

1914/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

バンドネオンの演奏技術が未発達だった時代、<エドゥアルド・アローラス>は、当時としてはズバ抜けた才能からバンドネオンの虎(El Tigre del Bandoneon)と呼ばれるようになった。
<ロベルト・フィルポ>とは、キャバレー【アルメノンビル】で共演している。

Antonio Bonavena

(アントニオ・ボナベーラ)

1930/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

古典的なリズムで踊りやすい。
ブエノスアイレスのコリエンテス通りの伝統的なカフェやキャバレーで長年活動しました。
優れた音楽家でありながら、不当に忘れ去られた存在として評価されています。
11歳の時に家族とともにアルゼンチンに移住し、青年期にバンドネオンを学び始めました 1925年にラジオ・プリエトでプロキャリアを開始し、1926年に自身の楽団を結成しました 1930年から1932年の間にコロンビア・レコードで72曲を録音しました

Juan de Dios Filiberto

(フアン・デ・ディオス・フィリベルト)

1932/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

世界中にその名を知られたカミニートが彼の象徴的作品になる。
<カルロス・ガルデル>は彼の曲を15曲ほど録音している。
1932年には自分の楽団を結成、{オルケスタ・ポルテーニャ}と名づけ、オデオンとビクトルに45曲の録音を残した。
指揮者として、現在国立<フアン・デ・ディオス・フィリベルト>記念アルゼンチン音楽オーケストラの名で続いている国立のオーケストラを設立し、それを率いた。

Quinteto Real

(キンテート・レアル)

1959/Orquesta/楽団

1959年に、<オラシオ・サルガン>をリーダーとして結成された五重奏。
当初のメンバーはピアノのサルガンの他、ヴァイオリン<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン<ペドロ・ラウレンス>、エレキギター<ウバルド・デ・リオ>、コントラバス{ラファエル・フェロ}。
時代により、{グラン・キンテート・レアル}Gran Quinteto Realや<ヌエボ・キンテート・レアル>などと呼称・表記が変わることがある。

Vicente Greco

(ビセンテ・グレコ)

1910/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン

<ビセンテ・グレコ>楽団は、1910年コルンビア・レコードにおいて、レコード・レーベル上、初めて楽団と記された楽団。
最初のレコードは、【ドン・フアン】(Don Juan)が収録されていた。
<ビセンテ・グレコ>の五重奏団は、{ロレンソ・ラバシエル}(Lorenzo Labissier)(バンドネオン)、<フランシスコ・カナロ>(ヴァイオリン)、 {フアン・アバテ}( Juan Abate) ヴァイオリン)、{ビセンテ・ペッチ}(Vicente Pecci) (フルート)というメンバーだった。
【アポロ劇場】でのダンスパーティーなどの活動が人々に記憶されている。

Sebastian Piana

(セバスティアン・ピアナ)

1931/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

1931年、<オメロ・マンシ>の詞によるミロンガ・センティメンタルを発表、ミロンガというジャンルに改革をもたらした。
ピアノ奏者として、<メルセデス・シモーネ>がトリオ・ティピコの伴奏で歌い始めた際、伴奏した。
<アルベルト・ゴメス>など他の歌手の伴奏も行った。
<ペドロ・マフィア>楽団にも、楽団に2名のピアニストがいた際に一緒に演奏している。
1934年には、<ペドロ・マフィア>、<シリアコ・オルティス>、<ペドロ・ラウレンス>、<カルロス・マルクッチ>とともに{ロス・シンコ・アセス・ペベーコ}を結成。
その後自己の楽団を率い、{オルケスタ・ティピカ・カンドンベ}と命名する。
1940年代にビクトルに10曲の録音を残した。

Los Astros del Tango

(ロス・アストロス・デル・タンゴ)

1957/Orquesta/奏団

<フリオ・デ・カロ>、デルフィーノ(Delfino)、アイエタ(Aieta)という有名な作曲家の作品を体系的に演奏するため七重奏団。
1957年にはレコード会社ミュージック・ホールの依頼で ヴァイオリンの<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオンの<フリオ・アウマーダ>、ピアノの{ハイメ・ゴシス}(Jaime Gosis)、ヴィオラの{マリオ・ラジ}(Mario Lalli)、チェロの{ホセ・ブラガト](Jose Bragato)、コントラバスの{ラファエル・デル・バグノ}(Rafael Del Bagno)と共に七重奏団<ロス・アストロス・デル・タンゴ>のメンバーとなり、タンゴの名曲版を出した。

Victor Buchino

(ビクトル・ブチーノ)

1950/Orquesta/楽団

エドムンド・リベロスシィ・レイバの伴奏をした