Orquesta(81) Canta(104) member(37) Orquesta2(31) Electronica(21) Compositor(13) Cafe De Los Maestros(15)
(ペドロ・ラウレンス)
1934/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
1924年に<フリオ・デ・カロ>楽団に参加。
<ペドロ・マフィア>が<フリオ・デ・カロ>楽団から離れた時、<ペドロ・ラウレンス>はトップバンドネオンとなる。
1934年自己の楽団を結成。
楽団解散後は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、<ウバルド・デ・リオ>、{ラファエル・フェロ}と共に<キンテート・レアル>を結成した。
<キンテート・レアル>は、3回来日を果たしている。


(アルベルト・ポデスタ)
1940/Cafe De Los Maestros/作曲、男性歌手、ソロ、現役
<ミゲル・カロー>楽団の歌手としてデビュー。
2年後には<カルロス・ディ・サルリ>楽団に移り、ヒットさせ当時のもっとも人気ある歌手の一人となる。
<ペドロ・ラウレンス>楽団、<フランチーニ-ポンティエル>楽団の専属だった。
<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>、<エドガルド・ドナート>が1950年代後半までに彼に参加を要請した。
1940年代のスター歌手で、2004年にはアルバム録音のプロジェクト<カフェ・デ・ロス・マエストロス>に参加。


(エルネスト・バッファ)
1959/Cafe De Los Maestros/作曲、楽団、バンドネオン
初めは、<オラシオ・サルガン>楽団で<レオポルド・フェデリコ>の後継として、後には<アニバル・トロイロ>楽団で、第1バンドネオンを任される存在として、1950年代からバンドネオンの代表的演奏家の一人であった。
また多作の作曲家としても知られている。
1953年、<オラシオ・サルガン>楽団に入る前、すでに<エクトル・スタンポーニ>、アルベルト・マンシオーネ Alberto Mancione、<アルフレド・ゴビ>、<ペドロ・ラウレンス>などの楽団、歌手のアルベルト・マリノ Alberto Marinoの伴奏楽団のメンバーだった。
1959年から1968年までは、<オスバルド・ベリンジェリ>と共に活動し始め、また<ウバルド・デ・リオ>と共にクアルテート・ドス・ポル・クアトロ Cuarteto 2x4を率いた。
<カフェ・デ・ロス・マエストロス>プロジェクトでは、<ウバルド・デ・リオ>のギター、<クリスティアン・サラテ>のピアノ、ガブリエル・デ・リオ Gabriel De Lio のギターなどによるキンテートによるもの。


(オスバルド・プグリエーセ)
1939/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
ピアノを<アンヘル・ダゴスティーノ>、{テネンソフ、エスカラムーサ}、{ルビオーネ}に学んだ。
<ロベルト・フィルポ>、<ペドロ・マフィア>の楽団でも演奏した。
<エルビーノ・バルダーロ>と楽団を結成した時にはすでに最良のピアニストの一人と考えられていた。
その後の<ペドロ・ラウレンス>、<アルフレド・ゴビ>、ダニエル・アルバレス、<ミゲル・カロー>楽団でも演奏した。
1939年から自己の楽団を率い、デ・カロ楽派の素晴らしい結実した。
それは乾いた、短く、反抗的な打音にあらわれる思いの集約であり、しかし決してタンゴからやさしさを奪ってはいない。
特徴的なリズムはジュンバと呼ばれる。
<オスバルド・プグリエーセ>楽団に属した音楽家
●バンドネオン奏者
<オスバルド・ルジェーロ>
<ホルヘ・カルダーラ>
<フリアン・プラサ>
<ビクトル・ラバジェン>
<フアン・ホセ・モサリーニ>
<エミリオ・バルカルセ>
●ヴァイオリン奏者
{エンリケ・カメラーノ}
{オスカル・エレーロ}
{シモン・バジュール}
{マウリシオ・マルチェリ}
●コントラバス奏者
{アニセト・ロッシ}
{アルシーデス・ロッシ}
{フェルナンド・ロマーノ}
●ピアノ奏者
{オスバルド・マンシ}
<アルマンド・クーポ>
{エルネスト・ロメロ}


(ペドロ・ラウレンス)
1934/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
1924年に<フリオ・デ・カロ>楽団に参加。
<ペドロ・マフィア>が<フリオ・デ・カロ>楽団から離れた時、<ペドロ・ラウレンス>はトップバンドネオンとなる。
1934年自己の楽団を結成。
楽団解散後は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、<ウバルド・デ・リオ>、{ラファエル・フェロ}と共に<キンテート・レアル>を結成した。
<キンテート・レアル>は、3回来日を果たしている。


(フェルナンド・スアレス・パス)
1973/Cafe De Los Maestros/楽団、ヴァイオリン
若い頃からタンゴを始め、<オラシオ・サルガン>、<ミゲル・カロー>、<ペドロ・ラウレンス>、<アニバル・トロイロ>、{マリアーノ・モーレス}、{アティリオ・スタンポーネ}、<レオポルド・フェデリコ>やその他の楽団にソロ奏者として加わった。
1973年にデビューした<セステート・マジョール>では結成時の初期メンバーだった。
1978年に<アストル・ピアソラ>の後期五重奏団(Quinteti Nuevo Tango)に編入する。
その後10年間、この楽団で幅広く世界ツアーを行う。
この頃ピアソラは彼のためにエスクアロ(Escualo)という曲を作曲している。
1996年にはバンドネオンの楽曲を演奏するために、ピアソラの楽団を真似て五重奏団を結成している。
<フェルナンド・スアレス・パス>は国立交響楽団(la Orquesta Sinfonica Nacional)に在籍したほか、17年間の{ブエノスアイレス交響楽団}(la Filarmonica de Buenos Aires)など、クラシック音楽での長期にわたるキャリアがある。
<カフェ・デ・ロス・マエストロス>では{オルケスタティピカ・ロス・マエストロス}の弦楽団のフロントマンに<フェルナンド・スアレス・パス>が迎え入れられた。


(オラシオ・サルガン)
1944/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ、監督
14歳の頃、<ロベルト・フィルポ>のオーケストラのメンバーギタリストの<ウバルド・デ・リオ>と活動を始始める。
1944年から自身のオーケストラの指揮を取り、その中には<レオポルド・フェデリコ>や<エルネスト・バッファ>で、歌手は、<エドムンド・リベロ>や<アンヘル・ディアス>、<ロベルト・ゴジェネチェ>。
1959年に<オラシオ・サルガン>をリーダーとして結成された五重奏。
当初のメンバーはピアノのサルガンの他、ヴァイオリン<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン<ペドロ・ラウレンス>、エレキギター<ウバルド・デ・リオ>、コントラバス{ラファエル・フェロ}。
その後メンバーの死去等もあり<アントニオ・アグリ>、<レオポルド・フェデリコ>、<ネストル・マルコーニ>らと交代。
彼は、アカデミックな音楽、ブラジル音楽、ジャズ、民俗音楽など、さまざまな要素を取り入れたて、数々の名作を生み出した。
1983年、【タンゴ・アルヘンティーノ】(Tango Argentino) のオリジナルキャストとして参加。


(エンリケ・フランチーニ)
1945/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン
1938年<アルヘンティーノ・ガルバン>と演奏し、すぐ後に<ミゲル・カロー>楽団に入団、第1ヴァイオリン奏者として際立つ存在となった。
1945年<ミゲル・カロー>楽団から独立し、バンドネオン奏者の<アルマンド・ポンティエル>と10年に亘って<フランチーニ-ポンティエル>楽団を率いた。
1959年に<オラシオ・サルガン>、<ウバルド・デ・リオ>、<ペドロ・ラウレンス>、{ラファエル・フェロ}(Rafael Ferro)と共に<キンテート・レアル>を結成する。
並行して<エクトル・スタンポーニ>とドゥオを結成、{オクテート・ブエノスアイレス}(Octeto Buenos Aires)、<ロス・アストロス・デル・タンゴ>、<アティリオ・スタンポーネ>楽団にも参加した。
{ブエノスアイレス市立交響楽団}(Orquesta Filarmonica de Buenos Aires)のメンバーを務めたこともあった。


(キンテート・レアル)
1959/Orquesta/楽団
1959年に、<オラシオ・サルガン>をリーダーとして結成された五重奏。
当初のメンバーはピアノのサルガンの他、ヴァイオリン<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン<ペドロ・ラウレンス>、エレキギター<ウバルド・デ・リオ>、コントラバス{ラファエル・フェロ}。
時代により、{グラン・キンテート・レアル}Gran Quinteto Realや<ヌエボ・キンテート・レアル>などと呼称・表記が変わることがある。

(セバスティアン・ピアナ)
1931/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
1931年、<オメロ・マンシ>の詞によるミロンガ・センティメンタルを発表、ミロンガというジャンルに改革をもたらした。
ピアノ奏者として、<メルセデス・シモーネ>がトリオ・ティピコの伴奏で歌い始めた際、伴奏した。
<アルベルト・ゴメス>など他の歌手の伴奏も行った。
<ペドロ・マフィア>楽団にも、楽団に2名のピアニストがいた際に一緒に演奏している。
1934年には、<ペドロ・マフィア>、<シリアコ・オルティス>、<ペドロ・ラウレンス>、<カルロス・マルクッチ>とともに{ロス・シンコ・アセス・ペベーコ}を結成。
その後自己の楽団を率い、{オルケスタ・ティピカ・カンドンベ}と命名する。
1940年代にビクトルに10曲の録音を残した。
