Orquesta(81) Canta(104) member(37) Orquesta2(31) Electronica(21) Compositor(13) Cafe De Los Maestros(15)
(フランシスコ・カナロ)
1916/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン
<ビセンテ・グレコ>楽団の活動の後、1916年に自身のグループを結成。
1910年代にリズムを強調した「タンゴ・ミロンガ」で評判を得る。
1925年にパリとアメリカへ。
1940年に<フランシスコ・カナロ>によって{ピリンチョ五重奏団}(Quinteto Pirincho)を結成
1961年には来日。
指揮者として4000曲という録音数がある。
「オデオンの5大楽団」のひとつ。


(フランシスコ・カナロ)
1916/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン
<ビセンテ・グレコ>楽団の活動の後、1916年に自身のグループを結成。
1910年代にリズムを強調した「タンゴ・ミロンガ」で評判を得る。
1925年にパリとアメリカへ。
1940年に<フランシスコ・カナロ>によって{ピリンチョ五重奏団}(Quinteto Pirincho)を結成
1961年には来日。
指揮者として4000曲という録音数がある。
「オデオンの5大楽団」のひとつ。


(ロベルト・マイダ)
1926/Canta/男性歌手
1925年に彼はでプロ歌手としてデビューした
<ミゲル・カロー>楽団。
<フランシスコ・カナロ>楽団で1935年頃から専属歌手をつとめたほか、<カトゥロ・カスティージョ>や<ペドロ・マフィア>などの楽団で活躍。


(オスバルド・フレセド)
1918/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
1918年、自己の楽団を結成、メンバーに<フリオ・デ・カロ>がいた。
1920年、<エンリケ・デルフィーノ>、{ティト・ロカタグリアータ}と共にアメリカに。
1928年パリへ行き、【エル・ガロンリドアンバサドゥール】といった有名なキャバレーで演奏する。
従来の楽団編成にハープ、ブラス、ドラム、バイブラフォンを加えたこと、有名なジャズ・トランペッター{ディジー・ガレスピー}との共演録音は彼の革新性を象徴するものとなっている。
<フランシスコ・カナロ>と共にキャバレー【モンマルトル】に出演した。
「オデオンの5大楽団」のひとつ。


(アリエル・ペデルネーラ)
1961/member/コントラバス
自身の楽団を持ったほか、{ホセ・ルイス・パドゥーラ}や<ロベルト・フィルポ>、<ミゲル・カロー>、<フランシスコ・カナロ>の楽団で活躍した。


(カルロス・ダンテ)
1936/Canta/男性歌手、映画、サラリーマン、ソロ
1934年<ミゲル・カロー>楽団の歌手となる。
1936年、<ミゲル・カロー>楽団から独立し、<アグスティン・マガルディ>とのコンビを解散したばかりの{ペドロ・ノダ}Pedro Nodaとドゥオを組み、ダンテ=ノダのコンビはすぐに評判となる。
<アルフレド・デ・アンジェリス>楽団=<カルロス・ダンテ>、<フリオ・マルテル>歌のレコードは売れる。
1951年<フリオ・マルテル>に代わって、{オスカル・ラロカ} Oscar Larrocaが入団、<カルロス・ダンテ>の新しいパートナーとなった。
1958年、<アルフレド・デ・アンジェリス>楽団と140曲近くを残した<カルロス・ダンテ>は退団した。
<カルロス・ダンテ>は<フランシスコ・カナロ>によってヨーロッパへの音楽大使団の一員に加わるチャンスを与えられることになる。
こうした仕事が継続してあるにも関わらず、石油輸入公団で17年間も働き続けた。


(フランシスコ・ロムート)
1923/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
1922年には自身のオーケストラを持ち、1922年から1950年の間に950曲以上を録音しました
タンゴの特徴は、減七度で終わる独特のエンディングで、力強いビートを持つ。
<フランシスコ・カナロ>や<ロベルト・フィルポ>と同時期のアーティストでタンゴの黄金時代を作った。
「オデオンの5大楽団」のひとつ。


(エルネスト・ファマー)
1928/Canta/作曲、男性歌手
劇場で始まった<オスバルド・フレセド>と、まもなく、<カルロス・ディ・サルリ>と
<フランシスコ・カナロ>年間続いた。
<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>や<フランシスコ・カナロ>や<フアン・カナロ>などでも活躍。


(ドミンゴ・フェデリコ)
1945/Orquesta/楽団、バンドネオン
<ドミンゴ・フェデリコ>は<フアン・カナロ>の楽団へ移り、1941年には<ミゲル・カロー>の楽団にてその座を確固たるものとした。
1940年代の半ばに自身の楽団を持つに至る。
若者によって構成された楽団、{ロサリオ国立大学タンゴ青年オルケスタ}(Orquesta Juvenil de Tango de la Universidad Nacional de Rosario)では教師として賞賛を受け、芸術活動としても素晴らしい結果を残した。
1961年に<フランシスコ・カナロ>の日本ツアーでバンドネオン奏者を務め、その後、自身の楽団でも度々日本ツアーを行った。


(チャルロ)
1928/Canta/男性歌手、ソロ
初期のレコードにおいては<カルロス・ガルデル>の強い影響がみられたが、やがて抑えの利いた、気取った独自のスタイルを確立した。
1924年にラジオで歌い始め、翌年には最初のレコードを録音した。
1928年<フランシスコ・カナロ>楽団、同時にソロイストとしてのレコーディングも行った。
<フランシスコ・ロムート>楽団の歌手としても録音している。
1935年からは映画にも出演、歌手としてマリオ・ソフィシ監督1935年作品バンドネオンの魂、


(ルシオ・デマーレ)
1936/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
<フランシスコ・カナロ>楽団で演奏、その後自己の楽団を結成。
楽団リーダーとしては、ダンサブルなアレンジに、メランコリックな音色がある。
スペインでデビューし、アメリカ大陸を廻り、大きな成功を収め、多数の録音を残した。


(フランシスコ・フィオレンティーノ)
1937/Canta/作曲、男性歌手、バンドネオン、ソロ
<フランシスコ・カナロ>楽団にバンドネオン奏者として参加、<フランシスコ・フィオレンティーノ>は最終的に歌手としてのみ知られるようになるまで、バンドネオンと歌の間で揺れ動く時期を長く過ごした。
1928年からさまざまな有名楽団で活動したにもかかわらず、広く知られた彼の最良の時期は<アニバル・トロイロ>と一緒だった1937年から1944年まで。
トロイロとのコンビはリフレイン歌手の最高の芸。
<フアン・カルロス・コビアン>(1928年)、<フランシスコ・カナロ>(1929年)、<ロベルト・フィルポ>(1929年)、<フアン・ダリエンソ>(1929年)、<アンヘル・ダゴスティーノ>(1930年)、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>(1931年)、<ペドロ・マフィア>(1931年)、<リカルド・マレルバ>(1936年)、<フランシスコ・フィオレンティーノ>は<オルランド・ゴニ>楽団の歌手<アストル・ピアソラ>指揮のソロ歌手となった。
<イスマエル・スピタルニク>になった(1946年)。
<ホセ・バッソ>楽団(1948-1949年)、その後{アルベルト・マンシオーネ} Alberto Macione 楽団(1950-1951年)、最後は{プグリア=ペドローサ} Puglia-Pedroza楽団(1951-1952年)に参加した。


(ネリー・オマール)
1938/Canta/作曲、女性歌手
1938年、{バレンティン・アルシーナ}Valentin Alsina での公演の後、スカートをはいたガルデルGardel con polleras と命名した。
<フランシスコ・カナロ>楽団と一連の素晴らしい録音を残したが、その後は常にギター伴奏で活躍。
1948年、モンテビデオでの公演中に<ネリー・オマール>は<アニバル・トロイロ>とマンシの作品スールSurを初演させている。
1955年のペロン政権崩壊後、長く政治的迫害を受け、1970年代に、シンプルなガウチョのポンチョを着て活動を再開した。
94歳で、現在も活動し、録音を続けている。


(エクトル・アルトラ)
1950/Orquesta/演奏家
1927年12月、{エドゥアルド・ビアンコ}(Eduardo Bianco)楽団に参加するためパリへ。
<リベルタ・ラマルケ>のバックオーケストラに加わるため、1934年にアルゼンチンへ戻り、この楽団に1937年まで所属。
{ミゲル・ニヘンソン}(Miguel Nijenson)、{ミゲル・ボナーノ}(Miguel Bonano)、<フランシスコ・フィオレンティーノ>とともに、{ロス・ポエタス・デル・タンゴ}(Los Poetas del Tango)を結成したが、その後すぐ<フランシスコ・カナロ>から声がかかる。
さらにヨーロッパから<ラファエル・カナロ>に呼ばれる。
1940年からブエノスアイレスで<ロベルト・マイダ>のバックオーケストラで<アルヘンティーノ・ガルバン>と知り合う。
<オスバルド・フレセド>楽団のバンドネオン奏者としても活動した時期もある。
【LR1ラディオ・エル・ムンド】の専属オーケストラに入り、当時のトップシンガーたちの編曲を担当した。
他にも【LR3 ラディオ・ベルグラーノ】の専属オーケストラや、ユニークなものでは{オルケスタ・シンフォニカ・アルヘンティーナ}の指揮もとっていた。
<エクトル・アルトラ>は、{オスカル・アロンソ}(Oscar Alonso)などの歌手の伴奏者として憶えられているが、1950年代に<エルビーノ・バルダーロ>楽団の編曲者としても活躍していた。


(ラファエル・カナロ)
1959/Orquesta/作曲、コントラバス
コントラバス奏者・作曲家。
兄<フランシスコ・カナロ>楽団のパリ演奏旅行に同行し、その後のほとんどをパリに住み現地のタンゴ普及に努力した。


(アンセルモ・アイエタ)
1930/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
バンドネオニストとしての<アンセルモ・アイエタ>は、<ヘナロ・エスポシト>に師事し、カフェの楽団でバンドネオンを弾き始めた。
1922年に自身のオーケストラを結成するまでは、<フランシスコ・カナロ>楽団に所属していたこともある。


(ホルヘ・ビダル)
1980/Canta/男性歌手
<オスバルド・プグリエーセ>の楽団へと移り、幾つかの録音を残し、40年代末のタンゴの歴史に名を刻んだ。
<フランシスコ・カナロ>の最後のミュージカル・コメディにも参加した。
1980年代に精力的に活動し、自身のラジオ番組も持ち、アルゼンチン歌手連盟を1986年に設立した。
{エクトル・マリア・アルトーラ}(Hector Maria Artola)や<エクトル・スタンポーニ>率いる楽団の伴奏で録音を残している。

(カルロス・マルクッチ)
1935/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
1925年、<フランシスコ・カナロ>に呼ばれ、パリ公演に同行。
【メトロポル映画館】にて、彼のもっともよく知られたタンゴわが悩み Mi dolorを初演した。
この曲の素晴らしいバンドネオン変奏は<カルロス・マルクッチ>の編曲としての才能をみせた。


(マリアーノ・モーレス)
1938/Orquesta/作曲、ピアノ
「さらば草原よ」「グリセル」といった彼のもっともヒットした作品。
1940年代は<フランシスコ・カナロ>が彼の楽団のピアニストとして<マリアーノ・モーレス>を迎え、共作を行った。
<エンリケ・サントス・ディセポロ>との「ウノ」「ブエノスアイレスの喫茶店」
<ホセ・マリア・コントゥルシ>とのグリセールクリスタル灰色の午後、<オメロ・マンシ>との「ひとしずくの涙」など。


(アダ・ファルコン)
1927/Canta/女性歌手
個性的な声によって、<アダ・ファルコン>は評価の高い女性歌手となった。
1925年ビクトル・レーベルでの録音。
<オスバルド・フレセド>楽団の伴奏で残した4曲に始まる。
1929年<フランシスコ・カナロ>楽団の伴奏でリフレイン歌手として録音を残すようになる。
また、同じく1929年LR10ラディオ・クルトゥーラの番組でラジオ放送でもデビュー。
1930年代初めには、<アダ・ファルコン>と<フランシスコ・カナロ>の関係はロマンスに発展しており、彼女は<フランシスコ・カナロ>にインスレーションを与えたミューズでもあり、多くの曲が<フランシスコ・カナロ>から<アダ・ファルコン>に捧げられている。
1930年代半ばまで深まり続けた。
しかし、この伝説のカップルが生活をともにすることはなかった。
宗教に人生を捧げるため早期に引退し、1942年以降の<アダ・ファルコン>の人生は伝説となっている。


(アヘシラオ・フェラサーノ)
1926/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン
<ロベルト・フィルポ>や<フランシスコ・カナロ>の楽団で演奏した
1927年に{フリオ・ポジェーロ}(Julio Pollero)と楽団を持った。


(ビセンテ・グレコ)
1910/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
<ビセンテ・グレコ>楽団は、1910年コルンビア・レコードにおいて、レコード・レーベル上、初めて楽団と記された楽団。
最初のレコードは、【ドン・フアン】(Don Juan)が収録されていた。
<ビセンテ・グレコ>の五重奏団は、{ロレンソ・ラバシエル}(Lorenzo Labissier)(バンドネオン)、<フランシスコ・カナロ>(ヴァイオリン)、 {フアン・アバテ}( Juan Abate) ヴァイオリン)、{ビセンテ・ペッチ}(Vicente Pecci) (フルート)というメンバーだった。
【アポロ劇場】でのダンスパーティーなどの活動が人々に記憶されている。
