Tango Artist - カルロス・ガルシーア

Orquesta(81)  Canta(104)  member(37)  Orquesta2(31)  Electronica(21)  Compositor(13)  Cafe De Los Maestros(15)  

Carlos García

(カルロス・ガルシーア)

1960/Orquesta/楽団、ピアノ

1932年には、<ロベルト・フィルポ>のオルケスタ・ティピカにピアノ奏者として加入した。
1936年から1938年まで<セバスティアン・ピアナ>の代理として、歌手<メルセデス・シモーネ>のレコーディングやライブに伴奏のトリオの一員として参加している。
1946年には教鞭をとり始め、ソリストとしての演奏や、フォルクローレ楽団の指揮も行った。
1960年からはラジオ局【LS1ラジオ・ムニシパル】(Radio Municipal)にて、1983年まで所属したオデオン・レーベルと同様に音楽顧問を務めた。
1980年代から先の<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>で、<カルロス・ガルシーア>はもっとも伝統的な曲々の編曲を担当した。

Montes Osvaldo

(オスバルド・モンテス)

1983/member/作曲、バンドネオン

ブエノスアイレスで {エミリオ・オルランド} Emilio Orlando、{ミゲル・ニヘンソン} Miguel Nijenshon、<ミゲル・カロー>、<エンリケ・フランチーニ>で演奏する。
1962年<レオポルド・フェデリコ>率いる、人気絶頂期の歌手<フリオ・ソーサ>の伴奏楽団に参加する。
その他<アティリオ・スタンポーネ>、<オラシオ・サルガン>、<マリアーノ・モーレス>楽団に参加、特に<マリアーノ・モーレス>とは10年近く共演、さまざまな海外公演にも同行した。
1983年から<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>のメンバー。
1980年代末には、<アントニオ・アグリ>の日本ツアーに参加、フランスではギター奏者{シロ・ペレス} Ciro Perezと演奏した。
ピアノの<カルロス・ガルシーア>とのドゥオ、ギターの<アニバル・アリアス>とのドゥオで録音を行っている。

Julio Pane

(フリオ・パネ)

1989/member/作曲、楽団、バンドネオン、教師

<フリオ・パネ>が在籍した楽団は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、オスバルド・マンシ(Osvaldo Manzi)、<アルマンド・ポンティエル>、<アティリオ・スタンポーネ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ミゲル・カロー>、<ホセ・バッソ>、<レオポルド・フェデリコ>、<オスバルド・タランティーノ>、<アストル・ピアソラ>六重奏団 (Sexteto de Astor Piazzolla) <ラウル・ガレーロ>と<カルロス・ガルシーア>を指揮者にむかえ、1982年に設立された<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>には、83年にソリスタとして参加し、現在もこのオルケスタでも活動している。
1992年、ドラムの{ダニエル・ピアソラ}(Daniel Piazzolla)と、<アストル・ピアソラ>のコンフント・エレクトロニコ(Conjunto Electrónico) を再結成したグループに参加。
このグループはアルバム1枚と数シーズンの公演の後解散した。
2002年、ブエノスアイレスのコロン劇場(Teatro Colón)に自身のトリオで出演。
{イルド・パトリアルカ}(Ildo Patriarca)、<フアンホ・ドミンゲス>と共演。

Aníbal Arias

(アニバル・アリアス)

1980/Cafe De Los Maestros/ギター、現役

1969年、<アニバル・トロイロ>に請われて彼の四重奏団に参加、1975年に<アニバル・トロイロ>が死去するまで楽団のメンバーとして活躍した。
1980年以降、<カルロス・ガルシーア>と<ラウル・ガレーロ>のふたりが指揮する<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>にソリストとして参加する。
また同じ時期に、バンドネオニストの<オスバルド・モンテス>とデュオを組み、ヨーロッパツアーや、日本公演を重ねている。
<アニバル・アリアス>は、アベジャネダ・ポピュラー音楽学校の創設メンバーのひとりで、若い世代に歴史的なスタイルを伝えるキーパーソンでもある。
ウルグアイの歌手<ラグリマ・リオス>や<グスタボ・サンタオラージャ>とともに<カフェ・デ・ロス・マエストロス>プ ロジェクトに参加。

Alberto Marino

(アルベルト・マリノ)

1943/Canta/作曲、作詞、男性歌手、ソロ

1939年アルベルト・デマーリ(Alberto Demari)の芸名で、ヴァイオリン奏者<エミリオ・バルカルセ>の楽団の歌手としてデビューした。
1943年の<アニバル・トロイロ>楽団の専属歌手になる。
<アニバル・トロイロ>とは1943年にキャバレー・ティビダボ(Tibidabo)でデビューした。
<アニバル・トロイロ>と共に得た名声はその後のソロ歌手としての飛躍の基礎となっている。
1947年ソロ歌手として活動を始めるため<エミリオ・バルカルセ>と再会する。
その後、初めは{エンリケ・アレッシオ}(Enrique Alesio)、その後{トト・ロドリゲス}(Toto Rodriguez)が伴奏楽団を引き受け、<ウーゴ・バラリス>、{オスバルド・マンシ}(Osvaldo Manzi)、{トト・ダマリオ}(Toto D'Amario)、{オスバロ・タランティーノ}(Osvaldo Tarantino)などの伴奏で1960年代末まで公演を続けた。
その後<エクトル・バレラ>楽団と日本をツアーし、<カルロス・ガルシーア>の伴奏でコロン劇場でも公演した。

Orquesta del Tango de Buenos Aires

(ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ)

1980/Orquesta2/楽団、現役

1980年、ブエノスアイレス市当局直属の組織として設立された。
ピアノ奏者<カルロス・ガルシーア>とバンドネオン奏者<ラウル・ガレーロ>指揮の下、当時現役だったタンゴ最良の演奏家たちを最初のメンバーとして集めた。
ガルシーアとガレーロの互いを補完する個性と、メンバーの万能性を支えていた。
<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>は常にメンバーを刷新することを通じた、演奏者のレベルの高さで際立っている。
2006年、<カルロス・ガルシーア>の死去に伴い、{アルベルト・ガルシーア・ビジャファニェ} Alberto Garcia Villafane が<ラウル・ガレーロ>を補佐している。

Marcos Madrigal

(マルコス・マドリガル)

1936/member/バンドネオン、現役

音楽院と街の楽団で音楽を学び、独学で卓越したバンドネオンの技術を身に付けた。
1936年に<オスバルド・プグリエーセ>の最初の楽団に参加する。
<オラシオ・サルガン>、<エルビーノ・バルダーロ>、<フリオ・デ・カロ>など著名な楽団でバンドネオン奏者を務めた。
また長きに亘るバンドネオン教師としての活動。
現代のタンゴシーンで活躍する一流の演奏家を何人も育てた。
長く切望されていた彼の著によるバンドネオン教則本が2003年に出版された。
<ホセ・リベルテーラ>、<エルネスト・バッファ>、<マルセロ・ニシンマン>、{ビクトル・ウゴ・ビジェーナ}(Victor Hugo Villena)など様々な世代の偉大な演奏家達が名を連ねる。
その後しばらくして、<フアン・サンチェス・ゴリオ>、<エンリケ・ロドリゲス>、そして<オラシオ・サルガン>のオルケスタ・ティピカと演奏した。
1953年、<エルビーノ・バルダーロ>の楽団で再び演奏し、第一バンドネオン奏者の<フリオ・アウマーダ>を支えた。
フリオは後に自身の楽団に彼を招いている。
1970年代の終わりには、<オスバルド・フレセド>とレコーディングをし、1990年代の初めには<カルロス・ガルシーア>率いる楽団で{フェデリコ・スコルティカッティ}(Federico Scorticatti)のサポートとして日本ツアーに同行した。

Argentino Ledesma

(アルヘンティーノ・レデスマ)

1957/Canta/男性歌手

1957年にはオデオン・レーベルの提唱で、ソロ歌手となる。
1958年には初めてチリへ行き大成功をおさめている。
1959年喜劇タンゴの庭(Patio de tango)に参加し、クルト・ランド監督の映画【エル・アサデ】ビューした1952年から常に成功し続けたアーティストだった。
<カルロス・ディ・サルリ>の楽団に歌手として移るが、ラジオ局【LR1ラジオ・エル・ムンド】の番組【グロストラ・タンゴ・クラブ】(Glostora Tango Club)で引き続き<エクトル・バレラ>楽団と歌うために戻っている。
<オスバルド・フレセド>のレコーディングに参加した。
ソロ歌手になってからは1966年まで{ドラゴーネ}(Dragone)の伴奏でレコーディングしている。
その間、ギター伴奏で{デマルコ}(Demarco)や<カルロス・ガルシーア>との共作も残した。

Roberto Firpo

(ロベルト・フィルポ)

1924/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ

ピアノ奏者で作曲家の<アルフレド・ベビラクア>の指導で音楽の知識を体系化した。
<ロベルト・フィルポ>は、楽団編成にピアノを組み込むことに決定的役割を果たした。
1913年、キャバレー【アルメノンビル】 (Armenonville)で自己の楽団でデビューした。
楽団メンバーとして在籍したのは、<エドゥアルド・アローラス>、 ヴァイオリンの{ティト・ロカタグリアータ} (Tito Roccatagliata)、後年には、<ペドロ・マフィア>、<エルビーノ・バルダーロ>、<オスバルド・プグリエーセ>、<カルロス・ガルシーア>などがいた。
オデオンの5大楽団」のひとつ。

Edmundo Rivero

(エドムンド・リベロ)

1940/Canta/作曲、男性歌手、ソロ

1940年代、<オラシオ・サルガン>で共演。
<アニバル・トロイロ>のオーケストラと一緒になると、すぐにトップスターになる。
<カルロス・ガルデル>の後、もっとも偉大なタンゴ歌手として、名を馳せる。
低音を操る技術で、<カルロス・ガルデル>の伝統を受け継ぐ者であった 1950年に<ビクトル・ブチーノ>や自身のギターカルテットと共にソロ活動を始めることになる。
1969年にはピアニストの{カルロス・ガルシーア}と共にブエノスアイレスでもっとも有名なタンゴバーの一つ【エル・ビエホ・アルマセン】(El Viejo Almacen)を開業。
そこで彼は死の直前まで歌い続けた。
<フリオ・デ・カロ>と{ホセ・デ・カロ}(Jose De Caro)のオーケストラの歌手であり、{ロス・カントーレス・デル・ヴァジェ}(Los Cantores del Valle)のメンバーでもあった。
レコード製作のために<オラシオ・サルガン>と再会し、<アストル・ピアソラ>と{ホルヘ・ルイス・ボルヘス}による歌詞で<アストル・ピアソラ>の作品を録音した。

Carlos García

(カルロス・ガルシーア)

1960/Orquesta/楽団、ピアノ

1932年には、<ロベルト・フィルポ>のオルケスタ・ティピカにピアノ奏者として加入した。
1936年から1938年まで<セバスティアン・ピアナ>の代理として、歌手<メルセデス・シモーネ>のレコーディングやライブに伴奏のトリオの一員として参加している。
1946年には教鞭をとり始め、ソリストとしての演奏や、フォルクローレ楽団の指揮も行った。
1960年からはラジオ局【LS1ラジオ・ムニシパル】(Radio Municipal)にて、1983年まで所属したオデオン・レーベルと同様に音楽顧問を務めた。
1980年代から先の<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>で、<カルロス・ガルシーア>はもっとも伝統的な曲々の編曲を担当した。

Raúl Garello

(ラウル・ガレーロ)

1974/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役

ブエノスアイレスでは【LR3ラディオ・ベルグラーノ】の専属オーケストラのメンバーとなり、 その後<レオポルド・フェデリコ>の代わりに<ロベルト・フィルポ>・イホの四重奏団のメンバーとなった。
<カルロス・ダンテ>、<アルベルト・モラン>など歌手の伴奏楽団でも活動し、{ロベルト・パンセーラ}、<オラシオ・サルガン>楽団のメンバーでもあった。
その後、<アニバル・トロイロ>楽団に入団し、 1967年、それ以降、<ラウル・ガレーロ>はトロイロ楽団のすべての編曲の責任者となり、 1975年まで輝かしいキャリアを積んだ。
1974年自己の六重奏団を結成、録音も始めた。
まもなく楽団編成は拡大し、1977年の時点ではメンバーが27名にものぼった。
1980年、ピアノ奏者の<カルロス・ガルシーア>と共に、 <ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>の指揮を引き受けた。
当初からガルシーアは古典的なテーマ、<ラウル・ガレーロ>は現代的なテーマを割り当てられた。
2003年にはブエノスアイレス名誉市民に任命された。

Hernán Salinas

(エルナン・サリナス)

1980/Canta/男性歌手

歌とタンゴについての研究を行う人として、彼をタンゴ界の重要人物に押し上げる事となった。
1976年にブエノスアイレス市が主催したOTI歌手フェスティバルの際、エルナン・サリナスの芸名で歌い始めた。
黄金の1940年代の生き残りで二つの偉大な楽団の<オスバルド・プグリエーセ>と<アルフレド・デ・アンジェリス>とレコーディングを行った。
1980年から<カルロス・ガルシーア>とルベン・ガレージョ(Ruben Garello)が共同指揮をとる<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>にて歌手を務める。
歌手として在籍中は、アルゼンチンでの数え切れない公演に加え、世界中をツアーして回った。
1987年には<オラシオ・フェレール>と<アストル・ピアソラ>のオペラ【ブエノスアイレスのマリア】(Maria de Buenos Aires junto)に出演するためヨーロッパに行った。