Orquesta(81) Canta(104) member(37) Orquesta2(31) Electronica(21) Compositor(13) Cafe De Los Maestros(15)
(エンリケ・フランチーニ)
1945/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン
1938年<アルヘンティーノ・ガルバン>と演奏し、すぐ後に<ミゲル・カロー>楽団に入団、第1ヴァイオリン奏者として際立つ存在となった。
1945年<ミゲル・カロー>楽団から独立し、バンドネオン奏者の<アルマンド・ポンティエル>と10年に亘って<フランチーニ-ポンティエル>楽団を率いた。
1959年に<オラシオ・サルガン>、<ウバルド・デ・リオ>、<ペドロ・ラウレンス>、{ラファエル・フェロ}(Rafael Ferro)と共に<キンテート・レアル>を結成する。
並行して<エクトル・スタンポーニ>とドゥオを結成、{オクテート・ブエノスアイレス}(Octeto Buenos Aires)、<ロス・アストロス・デル・タンゴ>、<アティリオ・スタンポーネ>楽団にも参加した。
{ブエノスアイレス市立交響楽団}(Orquesta Filarmonica de Buenos Aires)のメンバーを務めたこともあった。


(アルベルト・ポデスタ)
1940/Cafe De Los Maestros/作曲、男性歌手、ソロ、現役
<ミゲル・カロー>楽団の歌手としてデビュー。
2年後には<カルロス・ディ・サルリ>楽団に移り、ヒットさせ当時のもっとも人気ある歌手の一人となる。
<ペドロ・ラウレンス>楽団、<フランチーニ-ポンティエル>楽団の専属だった。
<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>、<エドガルド・ドナート>が1950年代後半までに彼に参加を要請した。
1940年代のスター歌手で、2004年にはアルバム録音のプロジェクト<カフェ・デ・ロス・マエストロス>に参加。


(オスバルド・モンテス)
1983/member/作曲、バンドネオン
ブエノスアイレスで {エミリオ・オルランド} Emilio Orlando、{ミゲル・ニヘンソン} Miguel Nijenshon、<ミゲル・カロー>、<エンリケ・フランチーニ>で演奏する。
1962年<レオポルド・フェデリコ>率いる、人気絶頂期の歌手<フリオ・ソーサ>の伴奏楽団に参加する。
その他<アティリオ・スタンポーネ>、<オラシオ・サルガン>、<マリアーノ・モーレス>楽団に参加、特に<マリアーノ・モーレス>とは10年近く共演、さまざまな海外公演にも同行した。
1983年から<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>のメンバー。
1980年代末には、<アントニオ・アグリ>の日本ツアーに参加、フランスではギター奏者{シロ・ペレス} Ciro Perezと演奏した。
ピアノの<カルロス・ガルシーア>とのドゥオ、ギターの<アニバル・アリアス>とのドゥオで録音を行っている。


(フリオ・ソーサ)
1949/Canta/作詞、男性歌手
1949年に<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>のオーディションを受け、こちらは即決で歌手契約をとる。
1953年に<フランシスコ・ロトゥンド>の楽団に移り、この時期の1955年6月から1960年8月まで、その頃すでに<エンリケ・フランチーニ>と袂を分かっていた<アルマンド・ポンティエル>指揮する楽団に参加、このふたりは素晴らしいパートナーシップを発揮した。
その後ソーサ自身の大きな飛躍となるソリストとしての独立につながる。
1961年5月、<レオポルド・フェデリコ>の楽団の伴奏で、レコーディングを始める。
<レオポルド・フェデリコ>の精巧な伴奏とともに、<フリオ・ソーサ>は人気絶頂の1964年に事故に遭い息を引き取った。
彼は歌手で他に文筆家としての才能もみせ、新聞にコラムを書いていた。


(フリオ・パネ)
1989/member/作曲、楽団、バンドネオン、教師
<フリオ・パネ>が在籍した楽団は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、オスバルド・マンシ(Osvaldo Manzi)、<アルマンド・ポンティエル>、<アティリオ・スタンポーネ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ミゲル・カロー>、<ホセ・バッソ>、<レオポルド・フェデリコ>、<オスバルド・タランティーノ>、<アストル・ピアソラ>六重奏団 (Sexteto de Astor Piazzolla)
<ラウル・ガレーロ>と<カルロス・ガルシーア>を指揮者にむかえ、1982年に設立された<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>には、83年にソリスタとして参加し、現在もこのオルケスタでも活動している。
1992年、ドラムの{ダニエル・ピアソラ}(Daniel Piazzolla)と、<アストル・ピアソラ>のコンフント・エレクトロニコ(Conjunto Electrónico) を再結成したグループに参加。
このグループはアルバム1枚と数シーズンの公演の後解散した。
2002年、ブエノスアイレスのコロン劇場(Teatro Colón)に自身のトリオで出演。
{イルド・パトリアルカ}(Ildo Patriarca)、<フアンホ・ドミンゲス>と共演。


(ロベルト・ルフィーノ)
1938/Canta/作曲、男性歌手、ソロ
1938年、<カルロス・ディ・サルリ>との活動をスタート。
40年代のタンゴ黄金時代の象徴になる。
60年代の<アニバル・トロイロ>の音にも深く関係している。
90年代までソロとして活動した。
{エミリオ・オルランド}( Emilio Orlando)や<フランチーニ-ポンティエル>、<ミゲル・カロー>や{ロベルト・カロ}(Roberto Calo)、<エンリケ・フランチーニ>と演奏。
1961年、{アルマンド・ポルティエル}(Armando Portier)と、1962年から1965年の間は、<アニバル・トロイロ>と歌を共にする


(ロベルト・パンセーラ)
1949/member/バンドネオン
彼は独学でバンドネオンの演奏を学び始め、1940年代の前半になり、{ドミンゴ・S・フェデリコ}(Domingo S. Federico)に師事するようになる。
1945年にフェデリコの勧めで<フアン・カルロス・コビアン>の楽団に<ロベルト・パンセーラ>は所属する。
それからしばらくしてヴァイオリン奏者<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン奏者{アルマンド・ポンティエル}(Armando Pontier)の楽団に加入する。
彼のバンドネオンの才能と技巧が認められ、さらに編曲家としての独創性から、明らかに時代を先取りジャズと現代音楽の調和という実験音楽を求めていた<オスバルド・フレセド>に招かれた。
<オスバルド・フレセド>の楽団に編曲家として<ロベルト・パンセーラ>の加入後、楽団は戦中戦後に聴かれていたアメリカのビッグ・バンド的な雰囲気を帯び始めた。
1955年に<アストル・ピアソラ>はより野心的でタンゴ史における最上のものを求め{ブエノスアイレス八重奏団}(Octeto Buenos Aires)を結成するために<ロベルト・パンセーラ>を招聘した。
その1年後、<オスバルド・フレセド>の楽団に戻り、かつて経営したナイトクラブで演奏するようになった。
彼のスタイルは本質的に<アニバル・トロイロ>的であり、歌手たちから伴奏をもっとも求められる人物の一人となった。
彼は{ウゴ・マルセル}(Hugo Marcel)、<ロベルト・ゴジェネチェ>、{ウーゴ・デル・カリル}(Hugo del Carril)など数多くの歌手たちの伴奏を務めた。
彼はアルゼンチン音楽著作権協会(SADAIC)の会長を1982年から務め、同年ユネスコの国際音楽会議のアルゼンチン代表となった。

(ペドロ・ラウレンス)
1934/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
1924年に<フリオ・デ・カロ>楽団に参加。
<ペドロ・マフィア>が<フリオ・デ・カロ>楽団から離れた時、<ペドロ・ラウレンス>はトップバンドネオンとなる。
1934年自己の楽団を結成。
楽団解散後は、<オラシオ・サルガン>、<エンリケ・フランチーニ>、<ウバルド・デ・リオ>、{ラファエル・フェロ}と共に<キンテート・レアル>を結成した。
<キンテート・レアル>は、3回来日を果たしている。


(ミゲル・カロー)
1928/Orquesta/楽団
1927年に<フランシスコ・プラカニコ>のオルケスタに入り、1928年に自身の楽団を結成した。
オルケスタの特徴は、<オスマル・マデルナ>のピアノ演奏から生まれる軽快なリズムや、インストゥルメンタルを多用するなど踊りやすさがあげられる。
彼のオルケスタには、1940年代のタンゴの時代を作った<アニバル・トロイロ>、<ドミンゴ・フェデリコ>、ヴァイオリン奏者の<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>、<オスマル・マデルナ>など在籍した。


(アルマンド・ポンティエル)
1945/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
1939年、<ミゲル・カロー>楽団に参加、<エンリケ・フランチーニ>、<オスマル・マデルナ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ドミンゴ・フェデリコ>などの優れたメンバーと一緒に演奏した。
1945年<エンリケ・フランチーニ>と共に<フランチーニ-ポンティエル>楽団を率い、1955年まで活動した。


(オスマル・マデルナ)
1945/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
<ミゲル・カロー>楽団から<エクトル・スタンポーニ>が抜けた後、<オスマル・マデルナ>が代わりに入団、ここからマデルナの成功の歴史が始まることになる。
<ミゲル・カロー>楽団には1945年まで留まり、同年1945年、自己の楽団を持ち、歌手<ラウル・イリアルテ>を一緒に連れていった。
<ドミンゴ・フェデリコ>、<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>と人気を分かち合った。


(エクトル・スタンポーニ)
1933/Orquesta/作曲、ピアノ
<エクトル・スタンポーニ>はブエノスアイレスのラジオ・オーディションでデビューした後、トリオを結成するためエレルトの楽団を離れた<アルマンド・ポンティエル>、<エンリケ・フランチーニ>と3人で、ラジオ局【LR2ラジオ・アルヘンティーナ】(LR2 Radio Argentina)に出演する歌手たちの伴奏をおこなった。
1937年から1938年まで{フェデリコ・スコルティカティ}(Federico Scorticati)の楽団やレコード会社ビクターでピアニストを務めた。
その後、<ミゲル・カロー>の楽団へと移る。
1959年には{ロス・ビオリネス・デ・オロ・デル・タンゴ}(Los Violines de Oro del Tango)を<エンリケ・フランチーニ>と共同で指揮した。
最後のカフェ(El ultimo cafe)、ワルツ曲星空の下(Bajo un cielo de estrellas)亜麻の花(Flor de lino)空のかけら(Pedacito de cielo)などの不朽の名作を作曲した。


(ネストル・マルコーニ)
2005/member/バンドネオン、現役
11歳でピアノと作曲の勉強を始め、その後バンドネオンに没頭。
ブエノスアイレスでは、<ホセ・バッソ>楽団のメンバーとしてスタートし、<エンリケ・フランチーニ>=<アルマンド・ポンティエル>楽団のメンバーともなった。
エクトル・コンソーレ、オラシオ・(オマール・)バレンテと共にバングアトリオを結成、タンゴの革新派バンドとなる。
オリジナル曲や、古典の名曲のアレンジでもその個性的な音使いを極めた。
<オラシオ・サルガン>の<キンテート・レアル>のメンバーとして演奏し、<アストル・ピアソラ>・キンテートの再現でピアソラ役としてピアソラのシンフォニックな作品を弾きこなし、<アドリアナ・バレーラ>、<エクトル・スタンポーニ>、<ホセ・コランジェロ>の編曲者として活躍したのは、その万能的なアレンジがあったからこそ。
2005年まで、<アティリオ・スタンポーネ>とともに国立<フアン・デ・ディオス・フィリベルト>・アルゼンチン音楽オーケストラの指揮者をつとめた。
現在は、自身のトリオで息子のレオナルド、コントラバスのオスカル・ジウンタと演奏している。
2007年からはオルケスタ・エスクエラ・デ・タンゴの指揮者もつとめている。


(オラシオ・サルガン)
1944/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ、監督
14歳の頃、<ロベルト・フィルポ>のオーケストラのメンバーギタリストの<ウバルド・デ・リオ>と活動を始始める。
1944年から自身のオーケストラの指揮を取り、その中には<レオポルド・フェデリコ>や<エルネスト・バッファ>で、歌手は、<エドムンド・リベロ>や<アンヘル・ディアス>、<ロベルト・ゴジェネチェ>。
1959年に<オラシオ・サルガン>をリーダーとして結成された五重奏。
当初のメンバーはピアノのサルガンの他、ヴァイオリン<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン<ペドロ・ラウレンス>、エレキギター<ウバルド・デ・リオ>、コントラバス{ラファエル・フェロ}。
その後メンバーの死去等もあり<アントニオ・アグリ>、<レオポルド・フェデリコ>、<ネストル・マルコーニ>らと交代。
彼は、アカデミックな音楽、ブラジル音楽、ジャズ、民俗音楽など、さまざまな要素を取り入れたて、数々の名作を生み出した。
1983年、【タンゴ・アルヘンティーノ】(Tango Argentino) のオリジナルキャストとして参加。


(フリオ・アウマーダ)
1980/member/作曲、バンドネオン
<ペドロ・マフィア>のスタイルは、センシティブな表現が特徴。
20歳でブエノスアイレスに移り、{ロベルト・セリージョ}(Roberto Zerrillo)のオルケスタに参加。
その後、<ミゲル・カロー>の楽団へ移っている。
さまざまな楽団で演奏し、<アルヘンティーノ・ガルバン>、<ルシオ・デマーレ>、<アルベルト・カスティージョ>、{エクトル・マリア・アルトーラ}(Hector Artola)、<ホセ・バッソ>、{ホアキン・ド・レジェス}(Joaquin Do Reyes)、<エンリケ・フランチーニ>などのオルケスタがあげられる。
1980年から
<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>でも演奏している。

(フランチーニ-ポンティエル)
1945/Orquesta/楽団
1945年にバンドネオン奏者<アルマンド・ポンティエル>とヴァイオリン奏者<エンリケ・フランチーニ>が、<ミゲル・カロー>の楽団を退団し、共同主宰の形で設立した楽団。
主な活動は1955年まで。


(ビクトル・ラバジェン)
1968/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役
1951年、<ミゲル・カロー>の楽団に入団し、1954年まで在籍した。
<エンリケ・フランチーニ>楽団、<アルベルト・エチャグエ>=<アルマンド・ラボルデ>楽団にも在籍したのち、1958年には<オスバルド・プグリエーセ>楽団に入団し、編曲もおこなっていた。
1968年、ほかのメンバーらとともにプグリエーセ楽団から脱退。
プグリエーセ・スタイルをくんだグループ、<セステート・タンゴ>の創設メンバーとなる。
1989年、<セステート・タンゴ>とおなじく旧プグリエーセ楽団のメンバーによる<コロール・タンゴ>に参加。
1995年には、国際的に成功を収めたショー【フォーエバー・タンゴ】の楽団メンバーに、1996年からは同楽団の指揮者となった。


(キンテート・レアル)
1959/Orquesta/楽団
1959年に、<オラシオ・サルガン>をリーダーとして結成された五重奏。
当初のメンバーはピアノのサルガンの他、ヴァイオリン<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン<ペドロ・ラウレンス>、エレキギター<ウバルド・デ・リオ>、コントラバス{ラファエル・フェロ}。
時代により、{グラン・キンテート・レアル}Gran Quinteto Realや<ヌエボ・キンテート・レアル>などと呼称・表記が変わることがある。

(ロス・アストロス・デル・タンゴ)
1957/Orquesta/奏団
<フリオ・デ・カロ>、デルフィーノ(Delfino)、アイエタ(Aieta)という有名な作曲家の作品を体系的に演奏するため七重奏団。
1957年にはレコード会社ミュージック・ホールの依頼で
ヴァイオリンの<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオンの<フリオ・アウマーダ>、ピアノの{ハイメ・ゴシス}(Jaime Gosis)、ヴィオラの{マリオ・ラジ}(Mario Lalli)、チェロの{ホセ・ブラガト](Jose Bragato)、コントラバスの{ラファエル・デル・バグノ}(Rafael Del Bagno)と共に七重奏団<ロス・アストロス・デル・タンゴ>のメンバーとなり、タンゴの名曲版を出した。
