Orquesta(81) Canta(104) member(37) Orquesta2(31) Electronica(21) Compositor(13) Cafe De Los Maestros(15)
(アニバル・トロイロ)
1937/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
彼は、若くからバンドネオニスタとしての才能を発揮した。
1932年には、<フリオ・デ・カロ>、その1年後には<アルフレド・ゴビ>と共演。
続いて、<エルビーノ・バルダーロ>、<アンヘル・ダゴスティーノ>、<エンリケ・サントス・ディセポロ>、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>楽団(Orquesta Tipica Victor)、<フアン・カルロス・コビアン>とも共演している。
1937年、<アニバル・トロイロ>は自身のオルケスタを結成。
<アニバル・トロイロ>のオルケスタも、<カルロス・ガルデル>の残したスピリットを守り、<アストル・ピアソラ>よりも前に前衛的な音楽に挑戦し、楽団メンバーの構成や指揮、編曲に、細部にわたってこだわりを見せた。


(カルロス・ディ・サルリ)
1939/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
<オスバルド・フレセド>楽団とウンベルト・カナロ楽団のピアニストであった。
1940年以降であり、ダンサーたちに愛された。
辛口で滅多に賛辞をおくらない<アニバル・トロイロ>からも賞賛された。
<カルロス・ディ・サルリ>のスタイルは、リズムのしっかりしたダンサブルな感じ、ソロと変奏がほとんど登場しない統一感が強い。


(オメロ・マンシ)
1922/Compositor/作詞
<セバスティアン・ピアナ>と1931年にもこの分野の革新的作品となった「ミロンガ・センティメンタル」を作っている。
この作品によって新しいミロンガ・ポルテーニャの形式が始まった。
このコンビはさらに、まずまず人気を獲得した900のミロンガを続けて発表、詩人と作曲家による、タンゴ、ミロンガ、ワルツの多数のヒット作を生み出すコンビネーションを確立していった。
<カトゥロ・カスティージョ>と<アニバル・トロイロ>は彼のオマージュとして【オメロに捧ぐ】を作った。
<オメロ・マンシ>は、1929年に歴史学の教員となった。
1930年のクーデターの後、反体制に転じ、1931年には民主主義擁護の活動で投獄された。


(アストル・ピアソラ)
1955/Orquesta2/作曲、楽団、バンドネオン
タンゴ界の革命的な存在。
タンゴでありながら、伝統的なタンゴのリズムを使わない。
もしくは、タンゴにとらわれないバンドネオンの新ジャンルを構築。
伝統的なタンゴ時代
最初の時期は<ミゲル・カロー>、{フランシスコ・ラウロ}、<ガブリエル・クラウシ>の楽団に一時的に参加した。
1941年に<アニバル・トロイロ>楽団でデビュー。
1938年から1944年まで<アニバル・トロイロ>楽団に参加、そこでは初めて編曲も担当した。
その後歌手<フランシスコ・フィオレンティーノ>の伴奏楽団を指揮。
1944年にトロイロ楽団を脱退後、1946~49年には自己の楽団を率いた。
新しいタンゴ時代
1954年、タンゴに限界を感じたピアソラはクラシックの作曲家を目指してフランスへ留学。
1955年7月に帰国後、エレキギターを取り入れた{ブエノスアイレス八重奏団}を結成。
1958~60年、ピアソラは再びアメリカに。
1963年 新八重奏団。
1971年 - 1972年 九重奏団。
1978年 - 1988年 後期五重奏団。
1989年 六重奏団。


(エミリオ・バルカルセ)
1968/Cafe De Los Maestros/作曲、楽団、ヴァイオリン、バンドネオン、現役
1940年代半ば、歌手の<アルベルト・カスティージョ>が<リカルド・タントゥーリ>楽団からソロとして独立した際、<エミリオ・バルカルセ>は彼の伴奏楽団を率い、その時代の第一線で活躍する。
<アニバル・トロイロ>と<アルフレド・ゴビ>などのために、編曲も行っている。
1948年、<オスバルド・プグリエーセ>楽団に入団。
編曲家としては、20年間に渡って<オスバルド・プグリエーセ>楽団に必要とされ、作曲でもインスピレーションに溢れ、ラ・ボルドーナ(La bordona)シ・ソス・ブルッホ(Si sos brujo)などが有名。
<オスバルド・プグリエーセ>とは日本、ソ連、中国へのツアーを行い、1968年、他のメンバーたちと<オスバルド・プグリエーセ>楽団を辞し、<セステート・タンゴ>を結成した。
1999年{ブエノスアイレス市立タンゴ学校オーケストラ}(Orquesta Escuela de Tango de la Ciudad de Buenos Aires)の指揮者となり、若い音楽家たちにタンゴの歴史的なスタイルを伝え、この楽団とともに、コロン劇場を含むブエノスアイレスの主要劇場やパリでの公演を行っている。
2004年、<カフェ・デ・ロス・マエストロス>プロジェクトに参加。
2006年にはブエノスアイレス市の名誉市民に選ばれた。
2007年には{ブエノスアイレス市立タンゴ学校オーケストラ}の指揮を<ネストル・マルコーニ>に託して引退したが、オーケストラは今も<エミリオ・バルカルセ>の名を冠している。


(エルネスト・バッファ)
1959/Cafe De Los Maestros/作曲、楽団、バンドネオン
初めは、<オラシオ・サルガン>楽団で<レオポルド・フェデリコ>の後継として、後には<アニバル・トロイロ>楽団で、第1バンドネオンを任される存在として、1950年代からバンドネオンの代表的演奏家の一人であった。
また多作の作曲家としても知られている。
1953年、<オラシオ・サルガン>楽団に入る前、すでに<エクトル・スタンポーニ>、アルベルト・マンシオーネ Alberto Mancione、<アルフレド・ゴビ>、<ペドロ・ラウレンス>などの楽団、歌手のアルベルト・マリノ Alberto Marinoの伴奏楽団のメンバーだった。
1959年から1968年までは、<オスバルド・ベリンジェリ>と共に活動し始め、また<ウバルド・デ・リオ>と共にクアルテート・ドス・ポル・クアトロ Cuarteto 2x4を率いた。
<カフェ・デ・ロス・マエストロス>プロジェクトでは、<ウバルド・デ・リオ>のギター、<クリスティアン・サラテ>のピアノ、ガブリエル・デ・リオ Gabriel De Lio のギターなどによるキンテートによるもの。


(ロベルト・ルフィーノ)
1938/Canta/作曲、男性歌手、ソロ
1938年、<カルロス・ディ・サルリ>との活動をスタート。
40年代のタンゴ黄金時代の象徴になる。
60年代の<アニバル・トロイロ>の音にも深く関係している。
90年代までソロとして活動した。
{エミリオ・オルランド}( Emilio Orlando)や<フランチーニ-ポンティエル>、<ミゲル・カロー>や{ロベルト・カロ}(Roberto Calo)、<エンリケ・フランチーニ>と演奏。
1961年、{アルマンド・ポルティエル}(Armando Portier)と、1962年から1965年の間は、<アニバル・トロイロ>と歌を共にする


(エンリケ・カディカモ)
1925/Compositor/作曲、作詞、映画監督
タンゴにおいて多くの作品の作者であり、約1300曲を残す。
<エンリケ・カディカモ>は演出家、脚本家、映画監督でもあった。
彼の膨大な作品には、教養あるスタイルからやくざなスタイル、ノスタルジックなスタイルから力強いスタイルまで多様。
<エンリケ・カディカモ>は<フアン・カルロス・コビアン>、<アニバル・トロイロ>、<マリアーノ・モーレス>、<エンリケ・デルフィーノ>といったほぼすべてのタンゴを代表するアーティストと共作している。

(ロベルト・パンセーラ)
1949/member/バンドネオン
彼は独学でバンドネオンの演奏を学び始め、1940年代の前半になり、{ドミンゴ・S・フェデリコ}(Domingo S. Federico)に師事するようになる。
1945年にフェデリコの勧めで<フアン・カルロス・コビアン>の楽団に<ロベルト・パンセーラ>は所属する。
それからしばらくしてヴァイオリン奏者<エンリケ・フランチーニ>、バンドネオン奏者{アルマンド・ポンティエル}(Armando Pontier)の楽団に加入する。
彼のバンドネオンの才能と技巧が認められ、さらに編曲家としての独創性から、明らかに時代を先取りジャズと現代音楽の調和という実験音楽を求めていた<オスバルド・フレセド>に招かれた。
<オスバルド・フレセド>の楽団に編曲家として<ロベルト・パンセーラ>の加入後、楽団は戦中戦後に聴かれていたアメリカのビッグ・バンド的な雰囲気を帯び始めた。
1955年に<アストル・ピアソラ>はより野心的でタンゴ史における最上のものを求め{ブエノスアイレス八重奏団}(Octeto Buenos Aires)を結成するために<ロベルト・パンセーラ>を招聘した。
その1年後、<オスバルド・フレセド>の楽団に戻り、かつて経営したナイトクラブで演奏するようになった。
彼のスタイルは本質的に<アニバル・トロイロ>的であり、歌手たちから伴奏をもっとも求められる人物の一人となった。
彼は{ウゴ・マルセル}(Hugo Marcel)、<ロベルト・ゴジェネチェ>、{ウーゴ・デル・カリル}(Hugo del Carril)など数多くの歌手たちの伴奏を務めた。
彼はアルゼンチン音楽著作権協会(SADAIC)の会長を1982年から務め、同年ユネスコの国際音楽会議のアルゼンチン代表となった。

(ロベルト・ゴジェネチェ)
1952/Canta/男性歌手、ソロ
1950年代の<オラシオ・サルガン>、<アニバル・トロイロ>といった楽団の専属歌手。
年齢からくる声の衰えを、あふれる表現力、感情、感傷を描ききることでカヴァーした。
トロイロ楽団には1963年まで在団し、その頃には歌唱力を磨きあげ、彼は個性的で表現豊かなスタイルを強調するようになっていた。
その後、<アルマンド・ポンティエル>、<アストル・ピアソラ>、<アティリオ・スタンポーネ>、<ラウル・ガレーロ>などの伴奏で歌っている。
1960~70年代にソロ歌手となり、人々の敬意を受ける身となった。
1983年にパリでスタートした 【タンゴ・アルヘンティーノ】の最初のメンバーに選ばれ、
ピノ・ソラナス監督の映画によって国際的な注目を得た。
1988年には日本公演


(アニバル・アリアス)
1980/Cafe De Los Maestros/ギター、現役
1969年、<アニバル・トロイロ>に請われて彼の四重奏団に参加、1975年に<アニバル・トロイロ>が死去するまで楽団のメンバーとして活躍した。
1980年以降、<カルロス・ガルシーア>と<ラウル・ガレーロ>のふたりが指揮する<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>にソリストとして参加する。
また同じ時期に、バンドネオニストの<オスバルド・モンテス>とデュオを組み、ヨーロッパツアーや、日本公演を重ねている。
<アニバル・アリアス>は、アベジャネダ・ポピュラー音楽学校の創設メンバーのひとりで、若い世代に歴史的なスタイルを伝えるキーパーソンでもある。
ウルグアイの歌手<ラグリマ・リオス>や<グスタボ・サンタオラージャ>とともに<カフェ・デ・ロス・マエストロス>プ ロジェクトに参加。


(アニバル・トロイロ)
1937/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン
彼は、若くからバンドネオニスタとしての才能を発揮した。
1932年には、<フリオ・デ・カロ>、その1年後には<アルフレド・ゴビ>と共演。
続いて、<エルビーノ・バルダーロ>、<アンヘル・ダゴスティーノ>、<エンリケ・サントス・ディセポロ>、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>楽団(Orquesta Tipica Victor)、<フアン・カルロス・コビアン>とも共演している。
1937年、<アニバル・トロイロ>は自身のオルケスタを結成。
<アニバル・トロイロ>のオルケスタも、<カルロス・ガルデル>の残したスピリットを守り、<アストル・ピアソラ>よりも前に前衛的な音楽に挑戦し、楽団メンバーの構成や指揮、編曲に、細部にわたってこだわりを見せた。


(アントニオ・アグリ)
1965/member/作曲、ヴァイオリン
<アストル・ピアソラ>の耳に届き、1962年ピアソラのキンテート(五重奏団)への呼び声がかかった。
ピアソラとは数年間にわたり共演し、海外ツアーにも参加。
それと並行して、<アニバル・トロイロ>、<オスバルド・フレセド>、<オラシオ・サルガン>、<マリアーノ・モーレス>など、タンゴの巨匠たちのショーに参加し、レコーディングもおこなっている。
<キンテート・レアル>やコロン劇場専属オーケストラ(Orquesta del Teatro Colón)にも所属していたが、1976年、自身のオーケストラ、弦楽コンフントを結成する。
タンゴを中心に、グルック(Gluck)、ブラームス(Brahms)、シュトラウス(Strauss)、さらにはビートルズの作品までレパートリーに取り入れた。
1983年、<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>での演奏をスタートとさせ、晩年までたびたびこのオーケストラに参加している。


(フェルナンド・スアレス・パス)
1973/Cafe De Los Maestros/楽団、ヴァイオリン
若い頃からタンゴを始め、<オラシオ・サルガン>、<ミゲル・カロー>、<ペドロ・ラウレンス>、<アニバル・トロイロ>、{マリアーノ・モーレス}、{アティリオ・スタンポーネ}、<レオポルド・フェデリコ>やその他の楽団にソロ奏者として加わった。
1973年にデビューした<セステート・マジョール>では結成時の初期メンバーだった。
1978年に<アストル・ピアソラ>の後期五重奏団(Quinteti Nuevo Tango)に編入する。
その後10年間、この楽団で幅広く世界ツアーを行う。
この頃ピアソラは彼のためにエスクアロ(Escualo)という曲を作曲している。
1996年にはバンドネオンの楽曲を演奏するために、ピアソラの楽団を真似て五重奏団を結成している。
<フェルナンド・スアレス・パス>は国立交響楽団(la Orquesta Sinfonica Nacional)に在籍したほか、17年間の{ブエノスアイレス交響楽団}(la Filarmonica de Buenos Aires)など、クラシック音楽での長期にわたるキャリアがある。
<カフェ・デ・ロス・マエストロス>では{オルケスタティピカ・ロス・マエストロス}の弦楽団のフロントマンに<フェルナンド・スアレス・パス>が迎え入れられた。


(アルベルト・マリノ)
1943/Canta/作曲、作詞、男性歌手、ソロ
1939年アルベルト・デマーリ(Alberto Demari)の芸名で、ヴァイオリン奏者<エミリオ・バルカルセ>の楽団の歌手としてデビューした。
1943年の<アニバル・トロイロ>楽団の専属歌手になる。
<アニバル・トロイロ>とは1943年にキャバレー・ティビダボ(Tibidabo)でデビューした。
<アニバル・トロイロ>と共に得た名声はその後のソロ歌手としての飛躍の基礎となっている。
1947年ソロ歌手として活動を始めるため<エミリオ・バルカルセ>と再会する。
その後、初めは{エンリケ・アレッシオ}(Enrique Alesio)、その後{トト・ロドリゲス}(Toto Rodriguez)が伴奏楽団を引き受け、<ウーゴ・バラリス>、{オスバルド・マンシ}(Osvaldo Manzi)、{トト・ダマリオ}(Toto D'Amario)、{オスバロ・タランティーノ}(Osvaldo Tarantino)などの伴奏で1960年代末まで公演を続けた。
その後<エクトル・バレラ>楽団と日本をツアーし、<カルロス・ガルシーア>の伴奏でコロン劇場でも公演した。


(ホセ・バッソ)
1947/Orquesta/作曲、楽団、ピアニスト
1943年に<オルランド・ゴニ>の替わりとして
<アニバル・トロイロ>のオルケスタに入り、素晴らしい演奏を見せた。
彼の特徴となったのは荒々しさと非常にミロンガ的な演奏だった。
1947年に自身のオルケスタを結成し、その死まで維持し続けた。
そのオルケスタはバンドネオン奏者{フアン・カルロス・ベラ}(Juan Carlos Bera)、ヴァイオリン奏者{ウーゴ・バラリス}(Hugo Baralis)、{オスバルド・ロドリゲス}(Osvaldo Rodriguez)などの演奏家を有した。
40年代に作られた数々の楽団の中で、<ホセ・バッソ>のものはもっとも長く続いた楽団の一つとなった。


(ミゲル・カロー)
1928/Orquesta/楽団
1927年に<フランシスコ・プラカニコ>のオルケスタに入り、1928年に自身の楽団を結成した。
オルケスタの特徴は、<オスマル・マデルナ>のピアノ演奏から生まれる軽快なリズムや、インストゥルメンタルを多用するなど踊りやすさがあげられる。
彼のオルケスタには、1940年代のタンゴの時代を作った<アニバル・トロイロ>、<ドミンゴ・フェデリコ>、ヴァイオリン奏者の<エンリケ・フランチーニ>、<アルマンド・ポンティエル>、<オスマル・マデルナ>など在籍した。


(フロレアル・ルイス)
1944/Canta/男性歌手
<フロレアル・ルイス>はスタイル豊かで人気のあるタンゴ歌手のとしてその長い経歴を積み、1940年代に<アルフレド・デ・アンジェリス>や<アニバル・トロイロ>と絶頂を迎える。
1942年<アルフレド・デ・アンジェリス>に加入して、名声獲得へのステップとなる。
1944年、既に人気を集めていた彼は、<アニバル・トロイロ>のオーケストラに移ることを決意。
常にボーカリストとして著名な<アルベルト・マリノ>や<エドムンド・リベロ>とデュオを組んだ。


(ラウル・ベロン)
1940/Canta/男性歌手、ソロ
1940年代に登場した表現力豊かで個性的な歌手の一人。
<ラウル・ベロン>は、<ミゲル・カロー>楽団とキャバレー【シンガプール】とラジオ【ベルグラーノ】で活躍。
1940年代には、<オルランド・ゴニ>、<ルシオ・デマーレ>、<フランチーニ-ポンティエル>楽団に参加した。
1950年代には、<アニバル・トロイロ>楽団に参加した。
1963年<ミゲル・カロー>楽団とのもので、以後はソロ歌手として活動、1968年にギター伴奏によるアルバムを1枚残した。

(オルケスタ・コントラティエンポ)
1980/Orquesta2/楽団
<アニバル・トロイロ>や<オスバルド・プグリエーセ>のスタイルを参考にして名曲を演奏する。
リーダーの<シルビーナ・パウレラ>の自作曲なども演奏する。
メンバーは、ピアノ・指揮・編曲・リーダー:<シルビーナ・パウレラ>
バンドネオン:{ホルヘ・ドナディオ}Jorge Donadio、{ミゲル・フラスカ}Miguel Frasca
ヴァイオリン:{フアン・B・ブリンガス}Juan B. Bringas、{アリシア・モラン}Alicia Moran
コントラバス:{ファビアン・ラペンタ}Fabian Lapenta。
また歌手として{ダニエル・リベラ}Daniel Rivera、{セリア・サイア}Celia Saiaが参加することがある。


(エドムンド・リベロ)
1940/Canta/作曲、男性歌手、ソロ
1940年代、<オラシオ・サルガン>で共演。
<アニバル・トロイロ>のオーケストラと一緒になると、すぐにトップスターになる。
<カルロス・ガルデル>の後、もっとも偉大なタンゴ歌手として、名を馳せる。
低音を操る技術で、<カルロス・ガルデル>の伝統を受け継ぐ者であった
1950年に<ビクトル・ブチーノ>や自身のギターカルテットと共にソロ活動を始めることになる。
1969年にはピアニストの{カルロス・ガルシーア}と共にブエノスアイレスでもっとも有名なタンゴバーの一つ【エル・ビエホ・アルマセン】(El Viejo Almacen)を開業。
そこで彼は死の直前まで歌い続けた。
<フリオ・デ・カロ>と{ホセ・デ・カロ}(Jose De Caro)のオーケストラの歌手であり、{ロス・カントーレス・デル・ヴァジェ}(Los Cantores del Valle)のメンバーでもあった。
レコード製作のために<オラシオ・サルガン>と再会し、<アストル・ピアソラ>と{ホルヘ・ルイス・ボルヘス}による歌詞で<アストル・ピアソラ>の作品を録音した。


(フランシスコ・フィオレンティーノ)
1937/Canta/作曲、男性歌手、バンドネオン、ソロ
<フランシスコ・カナロ>楽団にバンドネオン奏者として参加、<フランシスコ・フィオレンティーノ>は最終的に歌手としてのみ知られるようになるまで、バンドネオンと歌の間で揺れ動く時期を長く過ごした。
1928年からさまざまな有名楽団で活動したにもかかわらず、広く知られた彼の最良の時期は<アニバル・トロイロ>と一緒だった1937年から1944年まで。
トロイロとのコンビはリフレイン歌手の最高の芸。
<フアン・カルロス・コビアン>(1928年)、<フランシスコ・カナロ>(1929年)、<ロベルト・フィルポ>(1929年)、<フアン・ダリエンソ>(1929年)、<アンヘル・ダゴスティーノ>(1930年)、<オルケスタ・ティピカ・ビクトル>(1931年)、<ペドロ・マフィア>(1931年)、<リカルド・マレルバ>(1936年)、<フランシスコ・フィオレンティーノ>は<オルランド・ゴニ>楽団の歌手<アストル・ピアソラ>指揮のソロ歌手となった。
<イスマエル・スピタルニク>になった(1946年)。
<ホセ・バッソ>楽団(1948-1949年)、その後{アルベルト・マンシオーネ} Alberto Macione 楽団(1950-1951年)、最後は{プグリア=ペドローサ} Puglia-Pedroza楽団(1951-1952年)に参加した。


(ネリー・オマール)
1938/Canta/作曲、女性歌手
1938年、{バレンティン・アルシーナ}Valentin Alsina での公演の後、スカートをはいたガルデルGardel con polleras と命名した。
<フランシスコ・カナロ>楽団と一連の素晴らしい録音を残したが、その後は常にギター伴奏で活躍。
1948年、モンテビデオでの公演中に<ネリー・オマール>は<アニバル・トロイロ>とマンシの作品スールSurを初演させている。
1955年のペロン政権崩壊後、長く政治的迫害を受け、1970年代に、シンプルなガウチョのポンチョを着て活動を再開した。
94歳で、現在も活動し、録音を続けている。


(ウーゴ・バラリス)
1944/member/ヴァイオリン
また彼の名を聞くと、<アニバル・トロイロ>や<アストル・ピアソラ>を思い出すかもしれない。
しばらくして、<ラファエル・ロッシ>との共演、若きバンドネオン奏者<アニバル・トロイロ>と出会うことになる。
そして<アンヘル・ダゴスティーノ>との演奏と続く。
<アニバル・トロイロ>が1937年に自身のオルケスタを結成した時、<ウーゴ・バラリス>を誘い、その後彼は当時無名だった<アストル・ピアソラ>が<アニバル・トロイロ>のオルケスタに入る仲介者となった。
<アニバル・トロイロ>と別れてからは、<フアン・カルロス・コビアン>のオルケスタで演奏した。
その後、生涯の盟友<アストル・ピアソラ>が指揮する、歌手<フランシスコ・フィオレンティーノ>の伴奏楽団に加わる事になる。
1980年に<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>設立時に第一ヴァイオリン奏者として加わり、引退するまで務め上げた。

(レイナルド・ニチェーレ)
1944/member/ヴァイオリン
<アニバル・トロイロ>楽団で長く第一ヴァイオリンをつとめたのちソリストとして<マリアーノ・モーレス>や<エドゥアルド・ロビラ>いろいろな演奏家とともに活躍した。
また、{ロス・ソリスタス・デル・タンゴ}(Los Solistas Del Tango)を結成した。

(フランシスコ・ロトゥンド)
1953/Orquesta/楽団、ピアノ
<アニバル・トロイロ>に心酔しダイナミックな楽風を目指した
1953年に<フリオ・ソーサ>が<フランシスコ・ロトゥンド>の楽団に移る
この時期の<フリオ・ソーサ>は声帯に深刻な問題を抱えていたが、手術し無事回復。
それにより、さらに深く低く、歌の精神に調和した声が生まれ出た。


(アルヘンティーノ・ガルバン)
1928/Orquesta/作曲、楽団、ヴァイオリン
1935年以降は、<ミゲル・カロー>、<オスバルド・フレセド>、<アニバル・トロイロ>、<フランチーニ-ポンティエル>、自己の楽団のために書いた革新的な編曲によってその才能を広く認められるようになる。
1958年、<エドゥアルド・アローラス>、<アグスティン・バルディ>、<フリオ・デ・カロ>、<エンリケ・デルフィーノ>、<アンセルモ・アイエタ>という有名な作曲家の作品を体系的に演奏するため七重奏団<ロス・アストロス・デル・タンゴ>を設立。


(オスバルド・ベリンジェリ)
1950/Orquesta/作曲、楽団、ピアノ
1944年歌手<エクトル・マウレ>の伴奏楽団に始まる。
その後<ドミンゴ・フェデリコ>、{ホアキン・ド・レジェス}(Joaquin Do Reyes)、<エドガルド・ドナート>、{ミゲル・カロー}(Miguel Calo)などの楽団に参加した。
1956年、<アニバル・トロイロ>の楽団に参加するまでは、歌手<ラウル・イリアルテ>の伴奏を務め、その後の<アニバル・トロイロ>楽団への参加。
<アニバル・トロイロ>楽団には約10年在籍し、その時期に決定的な自身のスタイルを確立。
力強いタンゴリズムを持ちながらも、ジャズの影響を受けた、タンゴにはあまりないコードや装飾を加えたことで、表現力豊かなスタイルを確立した。
<アニバル・トロイロ>楽団での仕事と並行して、{ロス・モデルノス}、{ロス・ノタブレス・デル・タンゴ}、<エルネスト・バッファ>との共同主宰による楽団とトリオにも参加した。
<アニバル・トロイロ>楽団を離れた後、<エルネスト・バッファ>との共演は1970年まで続いた。
その後のプロジェクトは、バンドネオン<レオポルド・フェデリコ>、コントラバス{オラシオ・カバルコス}とのトリオであった。
ヒットした歌手は、<ロベルト・ゴジェネチェ>との共演アルバムから、<オスバルド・タランティーノ>とのピアノ・ドゥオによる不思議なアルバムまで多数の録音を残している。
【タンゴ・アルゼンチーノ】の音楽監督を務めた。


(オルランド・ゴニ)
1943/Orquesta/楽団、ピアノ
1937年<アニバル・トロイロ>が自分の楽団を結成する時に、<オルランド・ゴニ>を呼んだ。
完璧にさまざまなリズムをコンビネーションしつつ楽団全体を前に進めていくピアノ。
<ミゲル・カロー>、{マヌエル・ブソン}、<アンセルモ・アイエタ>、<フアン・カルロス・コビアン>の楽団のピアニストをつとめた。
異なるスタイルを持った4人のリーダーのもとで、彼の経験は豊かなものになっていった。
1943年、自己の楽団を結成。
バンドネオンに{アントニオ・リオス} Antonio Rios、<ロベルト・フィルポ>、{エドゥアルド・ロビラ} Eduardo Rovira 、{ルイス・ボナット} Luis Bonnat 、ヴァイオリンに{ロランド・クルセル} Rolando Curcel、{ホセ・アマトリアン} Jose Amatriain、{アントニオ・ブランコ} Antonio Blanco、{エミリオ・ゴンサレス} Emilio Gonzalez、コントラバスに{ドミンゴ・ドナルーマ} Domingo Donarumaといったメンバー。
歌手は、<フランシスコ・フィオレンティーノ>、{アントニオ・ロドリゲス・レセンデ} Antonio Rodriguez Lesende、{オスバルド・カブレーラ} Osvaldo Cabrera、{ラウル・アルダオ} Raul Aldaoが交替で参加していった。


(ラウル・ガレーロ)
1974/Orquesta/作曲、楽団、バンドネオン、現役
ブエノスアイレスでは【LR3ラディオ・ベルグラーノ】の専属オーケストラのメンバーとなり、
その後<レオポルド・フェデリコ>の代わりに<ロベルト・フィルポ>・イホの四重奏団のメンバーとなった。
<カルロス・ダンテ>、<アルベルト・モラン>など歌手の伴奏楽団でも活動し、{ロベルト・パンセーラ}、<オラシオ・サルガン>楽団のメンバーでもあった。
その後、<アニバル・トロイロ>楽団に入団し、
1967年、それ以降、<ラウル・ガレーロ>はトロイロ楽団のすべての編曲の責任者となり、
1975年まで輝かしいキャリアを積んだ。
1974年自己の六重奏団を結成、録音も始めた。
まもなく楽団編成は拡大し、1977年の時点ではメンバーが27名にものぼった。
1980年、ピアノ奏者の<カルロス・ガルシーア>と共に、
<ブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラ>の指揮を引き受けた。
当初からガルシーアは古典的なテーマ、<ラウル・ガレーロ>は現代的なテーマを割り当てられた。
2003年にはブエノスアイレス名誉市民に任命された。

