タンゴの歴史(エポックメイキング)
【日本】1926(昭和2年)
目賀田綱美男爵、6年に及ぶパリ遊学より帰国
そのとき、タンゴのSPレコードをたくさん持って帰ったらしい
日本にタンゴおよびタンゴダンスを紹介する
レコードという存在が重要、ライブじゃないと聞けない時代だと、紹介すらできない
【日本】1928(昭和4年)
赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」がオープン(店の命名者は目賀田男爵)
生演奏でタンゴ
この成功を受け、ダンスホールやタンゴダンス人口が急増
小津安二郎監督『非常線の女』(1933年)の撮影舞台がフロリダ
【日本】1929(昭和5年)
古賀政男作曲 和製タンゴ「君恋し」大ヒット
【日本】1930(昭和6年)
「アルゼンチンタンゴの踊り方」森潤三郎著発行
上流階級にダンス流行
国立国会図書館のデジタル送信で、この本が読める
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001940878-00【日本】1932年 ダンス雑誌創刊
雑誌『ザ・ダンス』創刊
1933年 雑誌『モダンダンス』
雑誌創刊により、タンゴのスタイル、演奏方法、衣装など、さまざまことに焦点があたっていく。確かに雑誌はそういう役割があった
【日本】1933(昭和9年)
ラジオや、国華ダンスホール、赤坂フロリダなどで、いろいろな楽団が活躍
伴薫(ピアニスト)正統派のタンゴ楽団として結成
早川真平、池田光夫(バンドネオン奏者/池田光夫とロス・アミーゴス/オルケスタ・ティピカNHK)、見砂直照(東京キューバン・ボーイズ)を輩出
桜井潔(バイオリン)タンゴ楽団結成
【日本】1938(昭和14年)
淡谷のり子Poemaを録音
藤原義江Alma de Bandoneonを録音
古賀政男は、外務省の音楽文化親善使節としてハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問
ここらへんから、知っている名前が出てきた。大衆化しつつある
【日本】1938年
一般女性客のダンスホールへの入場禁止、パーティの停止(摘発強化)
風紀との戦い。そういう時代
【日本】1939
江戸川らん子La Cumparsitaを録音
日本ビクターよりタンゴアルバム発売
高橋忠雄の選曲と解説。「高橋忠雄Argentina Album」
復刻版はこちらで
https://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=17697【日本】1940
ダンスホールは昭和15年(1940)11月1日をもって全国的に閉鎖された
【日本】1940年代
若き日から全盛期を迎えた藤沢嵐子や早川真平、前田美知子など
サクライ・イ・ス・オルケスタ(桜井潔とその楽団)
早川真平とオルケスタティピカ東京
ニッポン・タンゴ(Nippon Tango)戦前・戦中編
1941-1945 12月8日太平洋戦争
【日本】1946(戦後スタート)
東京・麹町に日本人向けの高級ナイトクラブ「エスクワィヤ」が開店
専属楽団として早川真平が「オルケスタ・ティピカ東京」
見砂直照が「クラルテ」
南里文雄が「ホット・ペッパーズ」
フランシスコ・キーコとレイモンド・コンデのフィリッピン・ジャズマンのバンドの4組が結成された
続々とナイトクラブやダンスホールが開店し、大編成のダンスバンド全盛時代が始まる
戦後の復興は、どの国も似たりよったり、一気に復興景気になる
TangoStory: Tango in japanese movie!
【日本】1947
早川真平(1984)、Orquesta Tipica Tokio(1947-1971)を立ち上げる
【日本】1948
藤沢嵐子、神奈川県知事の横浜公邸で、日本に食料支援で来日のアルゼンチンのフリゲート艦乗組員に感謝を表し、Orquesta Tipica Tokioの伴奏でCaminitoを歌う
外交にタンゴ。しかも、曲はカミニート
【日本】1950
藤沢嵐子銀座のクラブシローでデビュー(Orquesta Tipica Tokio)
池田光夫とオルケスタ・ティピカ・サンテルモ結成
【日本】1951年
「早大タンゴ・バンド」として誕生
今現在も継承している
【日本】1952年
ラジオ東京(TBS)、文化放送で、オルケスタティピカ東京、オルケスタティピカ ポルテニャなどの日本のアルゼンチンタンゴバンドの番組を放送
NHKでは高橋忠雄さん、高山正彦さんのディスクジョッキー番組が始まる
ラジオを通して、アルゼンチンタンゴが流れていた日本
【日本】1953
早川真平 嵐子夫妻、アルゼンチン初訪問
【日本】1954
藤沢嵐子、ブエノスアイレス再訪、2か月のRadio Splendido、ナショナル劇場、チャンネル7出演
【日本】1954年
フアン・カナロ(Juan Canaro)楽団が初来日
アルゼンチンタンゴの楽団が日本に。生演奏で聞けるチャンスが到来
【日本】1955年1月
湯沢修一氏が(ミロンガ/すいよう会)を設立
日本のミロンガのはじまりかも、今でもすいよう会のミロンガは健在
【日本】1964-65
早川真平とOrqueta Tipica Tokio、アルゼンチンほか各国10か月演奏旅行
藤沢嵐子、阿保郁夫、柚木秀子も同行
【日本】1965
アルゼンチンの楽団の来日がはじまる
【日本】1990年(平成3)
小林大平・江口祐子のタンゴ教室がスタート
「ジュリアナ東京」オープン
ジュリアナに行っていた時が、日本のタンゴ教室の始まりか。個人的に感慨深い
【日本】1991年
藤沢嵐子9月6日の公演を最後にタンゴ界を引退。半世紀
【日本】1998年
「日本タンゴ・アカデミー」が発足
http://tangoacademy.jp/
こういうものができるということは、それなりにタンゴ人口が増えてきた
【日本】2000年
桑原和美『Tango Night』を企画、スタート
ここから、日本のタンゴ業界を創る人達が創出される
●世界のタンゴ
タンゴの転機としては
タンゴの起源云々時代
1928年第1次黄金時代
1940年代第2次黄金時代
1960年アストル・ピアソラ代表作『アディオス・ノニーノ』
1985年の「タンゴ・アルヘンチーノ」のニューヨーク公演
2000年に始まった各国のタンゴフェスティバル
2003年に始まった世界タンゴ・ダンス選手権大会
2009年にタンゴはユネスコの無形文化遺産に登録
ボカ地区(ブエノスアイレスの船着場)
大西洋航路の船員たちによってブエノスアイレスの船着場であるボカ地区に流れてきたもの
当時は、船でした移動できなかったため船着場経由がなにかと多い
スペインの作曲家セバスティアン・イラディエルが1860年ごろに作曲した『ラ・パロマ』 (La Paloma)
この曲は、なんとなく、タンゴに近い
キューバで生まれたババネラ(Habanera)
キューバで生まれた四分の二拍子のリズム、ババネラ(Habanera)
ハバネラとフラメンコが混ざり合ってアルゼンチンに上陸し、タンゴのルーツになっている説
隣国ウルグアイ「カンドンベ(Candombe)」
太鼓を基にした民族音楽→パーカッション、リズム、アフロ
これは、2拍子のミロンガのリズムと同じ
文化の伝播
大昔は船着場経由(船でした移動できなかったため)
現地から、パリに電波(ヨーロッパに行くと一気に芸術性がアップ)
きっかは、ライブやショー(その場限り)
大衆化には、映画、ラジオ、テレビ(何度も再生可能)
現在は、youtube(簡単に世界の文化がやってくる)
演奏場所の変化
カフェ→キャバレー→ダンスホール→劇場→レコード→ラジオ
ダンスホールで生演奏で踊る時代は、楽団のサービス精神からいろいろ曲がアレンジされたが、録音はなし
レコードができると、ラジオではレコードが繰り返し流れる
劇場で踊るタンゴは、おそらく双方の顔が見えるように、顔が観客側を向いている踊りになるような
1910年代
1917年 歌のタンゴ「わが悲しみの夜」
歌詞が入ると、一気に大衆化が加速する
1920年代
1918から1929年世界恐慌前まで経済的に恵まれる
1920年代でタンゴはヨーロッパに再び進出し、コンチネンタル・タンゴという新しいジャンルを生み出す
1925年オルケスタ・ティピカ・ビクトル
ビクトル社がタンゴを
ビクトル社はアルゼンチンに生産工場を持っていなかったため
移動式の録音装置によってアメリカ大陸全土で録音されていく
この時代レコーディングスタジオなるものは限定的だったことがわかる。1944年まで続く
1926 年に録音方式がそれまでのアコースティック録音から電気録音に替わる
1927年に録音されたレコードが名作が多いらしい
映画、ラジオから世界の音楽が輸入されてくる
巷の流行や違うジャンルの音楽が取り入れたタンゴが出てくる(ビジネスマンとしてのカナロ)
新しい楽器を取り入れる
歌モノも増えてくる
1928年第1次タンゴ黄金時代
オデオン5大楽団(ロムート、カナロ、ロベルト・フィルポ、フレセド、フリオ・デ・カロ)
1929年
ブラックマンデー、クーデター
暗黒時代にタンゴが花開く
牧歌的→素朴で力強い雰囲気
1930年代
タンゴダンスで全盛。踊りやすい曲がウケる
1931年2拍子ミロンガ
1931年、ピアナは作詞のオメロ・マンシと組んで「ミロンガ・センティメンタル」を発表で、ほとんど存在が忘れられていたミロンガ劇的な復活を遂げる
ピアナは「1900年のミロンガ(ミロンガ・デル・ノベシエントス)」を発表
セバスティアン・ピアナ=オメロ・マンシのもうひとつの傑作ミロンガである「悲しきミロンガ(ミロンガ・トリステ)」は、ゆったりとしたテンポで牧歌的な香りを漂わせている
1937年4月に録音されたダリエンソ楽団の「ラ・ブニャラーダ」が大ヒット。それ以降この曲はミロンガの定番のひとつとなった
1940 年代 第2次黄金時代
1940年第2次黄金時代アニバル・トロイロ、カルロス・ディ・サルリ、オスバルド・プグリエーセなどの活躍
楽団と専属歌手のコンビが、人気になる重要要素となる
1940年代に、タンゴは踊るための音楽という位置づけになる
多くの楽団があったこと
大編成であったこと
いろんな作詞家か、作曲家も出てきたこと
ライブ以外でも曲を聴けるようになったこと(ラジオ、レコード)
ダンスが大衆的になってきたこと
大衆化は、いろいろなレベルの人が踊ることになるので
単調でわかりやすい曲にしなければならなかったこと
同じ速さ同じリズムを繰り返していく
第2次世界大戦
鎖国化などで、人材や文化の交流もなくなる
第2次世界大戦後
景気は最高潮の時代を迎える。人や文化の交流も増え、海外公演なども盛んになる
1950年代
ダンスの流行が終わり、歌謡タンゴの時代
タンゴの歌詞は、それまでの時代と異なり、より詩的・文学的なり、韻律を踏まえた美しい音の響きが豊富になる
歌詞の内容も「愛」を扱ったものやブエノス・アイレスという街への愛着を歌うのもが多くなる
1960年代
ピアソラの時代
1960年 、アストル・ピアソラ代表作『アディオス・ノニーノ』
ここから新たなタンゴの時代がスタート
ピアソラに影響を受けた人達が続出
1980年代
1983年にパリでスタートした『タンゴ・アルゼンチーノ』
1985年の「タンゴ・アルヘンチーノ」のニューヨーク公演
→2000年フェスティバルがメジャーになるまでは、こちら路線
→音楽的には、2000年でエレクトロニカが出てきたのもこのぐらい
https://en.wikipedia.org/wiki/Mariano_Fr%C3%BAmboli1995年代
ヌエボタンゴ、新しい踊りのカタチ
知的アプローチに貢献
https://en.wikipedia.org/wiki/Gustavo_NaveiraGustavo Naveira→chicho
ダンスの変化の方向スタイルの基礎を学び、理解するための方法論
1997年のThe Tango Lesson
The Tango Lesson "The Tango Lesson" (1997)
tango lessonに出ていた人が、その後タンゴをひっぱることに
1997年の香港映画
ウォン・カーウァイ監督の映画「ブエノスアイレス」
男同士で踊るタンゴ
2000年代 タンゴフェスティバル
ロックフェスと同じのりで、タンゴフェス
踊る人達が集まる大きなイベント
ミロンガ、デモ、ライブと数日間行なわれる
1993年ぐらいからスタート
https://tango.info/festivals/1988https://tango.info/festivals/danceteachers
https://www.danceus.org/events/argentine-tango/tango-festivals-marathons-worldwide/
https://tangocat.net/
chichoは2000年ぐらいから参加みたい→世界レベル
イタリア、フランスあたりが2000年ぐらいから開始だね
https://tango.info/festivals/GustaNavei1999
ファビアン・サラス(Salas Fabian)
CITA 2024 THE BEST TANGO EVENT
https://cita.dance/2005年
12月11日は、アルゼンチンでは「タンゴの日」
タンゴの巨匠、カルロス・ガルデルとフリオ・デ・カロの誕生日にちなんでとのこと
1977年11月29日に、ブエノスアイレス市条例で、「タンゴの日」が制定され
それが、2005年にアルゼンチン国会で認められ、全国規模の記念日として制定されました
2009年9月30日
「ユネスコ無形文化遺産」